貞慶『法相初心略要』現代語訳(七)五位百法について(下)

法相初心略要 下巻

凡例

  • 底本としては『大日本仏教全書』第八〇巻(仏書刊行会、1915)を用い、訓点や文意の確認のため適宜京大所蔵本を参照した。

  • ()は補足、[]は文意を補うための補足で、いずれも筆者の挿入である。

  • 〈〉は原文中の注や割書を示す。

【書き下し】

次二十四不相応者

一、得。人有り、金銀等の宝を得る時、能得は人なり。所得[1]は金等なり。能得・所得を離れて別の得の体無し。然るに亦た得の義無きにしも非ず。今此の得の義を取って得を立つ。聖道を得、無為を得る等、皆な之れに准じて知るべし。故に是れ色心の実法の上の義分なり。別の体性無きが故に仮法なり。其の仮立の分は、非色非心なり。

二、命根。有情の寿命なり。是れ則ち第八識の能生の種子〈名言種子〉の一処の現行を生じ畢わり、一期の依身等を任持し、住せしむる功能を名づけて命根と為す。故に『論』の一に云く、「然も親しく此の識を生ずる種子に依って業に由り引く所の功能差別の住する時を決定せしむるを、仮って命根と立つ」と云々。

 凡そ第八識に於て因に二種類有り。
 一には名言種子、第八識の親因縁なり。則ち其の性は異熟無記なり。親しく自ら異熟無記[2]の果を弁ずるが故に、親因縁と名づく。是れ正因なり。
 二には業種子。善悪の思の種子なり。疎に異[熟[3]]無記の果を感ずるが故に、是れは増上縁なり。則ち是れ傍因なり。既に因は善悪にして果は無記なり。故に異熟と名づくるなり。
「異」とは別異の義なり。因と果と異なる性なるが故に異と名づく。
「熟」とは成熟の義なり。其の果は因性に異なって而も成ずるが故に名と為す。故に善悪の業は能資・助法なり。異熟無記の種子は、助法に資せらるるなり。善悪の業は異熟無記の種子を助けて、異熟無記の現行を生ぜしむ。

 今此の異熟無記の法に惣・別の報有り。惣報は第八、別報は異熟無記の六識、并に正根・扶根、別しては器世界なり。扶根・器世界は、其の体四塵なり。或る時は声塵を加え、惣[4]じて論ずれば五塵なり。是の如き等の惣報・別報[5]は、其の性皆な無記にして各各皆な其の親因縁の種子有り。今此の異熟無記の種子は勢力微劣にして、他助を蒙らざる時は輒ち現行すること能わず。善悪の種子は勢用強勝[6]にして、之れを助くる時、方に現行を生ず。此の善悪の業に於て、善業の中に人・天等の不同有り。悪業の中に地獄・鬼畜等の不同有り、各の無記種子を助く。所生の現行に五趣の差別有り。悪業の助くる所の無記種子所生の果報は非愛なり。則ち別報を論ずれば、牛馬等の形、刀山等の器界なり。惣報は第八なり。微細にして知り難し。然るに其の分斉有る歟。若し善業の助くる所の無記種子ならば、所生の果報は可愛なり。則ち別報を論ずれば、人・天等の形、花林菓樹等の器界なり。第八の惣報の知り難き義は亦た之れ同じ[7]。
 其れ異熟無記は六識別報の主なり。善悪趣の差別も亦た是れ有るべき歟。今此の可愛非愛は善悪の性に非ず、其の性無記なるが故に。然も因の善悪に従うが故に善趣・悪趣と名づくるなり。

問答(1)

 問う。無記は皆な無覆無記なる歟。
 答う。爾らず。無記に於て二種有り。
 一に有覆無記。謂く煩悩・随煩悩及び相応の心・心所の中に極悪に非ざる者は、其の性染汙なりと雖も悪とは名づけず。悪と名づけずと雖も、自心を隠蔽す。是れを有覆無記性の法と名づくるなり。「覆」とは隠蔽の義なり。
 二に無覆無記。其の性染汙に非ずと雖も、澄浄に非ざるが故に善に非ず。善に非ずと雖も、自心を隠蔽せざるが故に無覆無記と名づくるなり。

問答(2)

問う。無覆無記は倶に異熟無記なる歟。
答う。爾らず。無覆無記に於て四類有り。
 一に異熟無記。上に明せるが如し。
 二に威儀無記。威儀を発す心なり。
 三に工巧無記。工巧を発す心なり。
今この威儀・工巧の心中に善悪の心之れを発すこと有りと雖も、今は無記の心を取るなり。
 四に変化無記。亦た通果無記とも名づく。得定の人が出定の時、神通変化の事を現ずる心なり。此の中善悪これを発すこと有りと雖も、今無記を取る。
〈已上、惣て無覆無記中を開く所の四無記なり。〉

三、衆同分。いわゆる人人相似、天天相似、法法相似等なり。故に既に相似の義分を取って衆同分と名づく。豈に実体有らん乎。

四、異生性。いわゆる凡夫の性なり。異生とは凡夫の異名なり。凡夫の凡夫たる事は、初無漏を障うる惑障の力[8]なり。故に初無漏を障うる惑の種子の上に異生性を立つ。無漏一たび現行し畢りて以去を聖者と名づく。未だ曽て無漏現行せざるの間は、無始以来是れ凡夫なり。故に初無漏を障うる惑の種子の上に凡夫の性を立つるなり。惑の現行の間断あるが故に、種子の上に之れを立つるなり。

五、無想定。いわゆる外道所入の無心定なり。或る外道計して云く「想念を以て生死の根源と為す。想を滅し畢らば涅槃を得べし」と。是の故に思を凝らして心を止め、しばしば無心を欣い、是の如く乃し微心に至り、微微心に至り、遂に無心に至る。此の無心の位には六識皆な滅す。豈に三昧の体有らん乎。定とは第六相応の心所なり。六識皆な滅する位には相応の心所現起すべからざるが故なり。然るに無想定と名づくるは、彼の厭心の種子の上に遮防の功能有り。彼の功能の於に無想定を立つるなり。想滅を首とするが故に無想と名づく。

六、滅尽定。いわゆる聖者所入の滅尽定なり。不還果已上の人の止息想の作意に依って無心の三昧を欣び、乃し微微心に至り、遂に無心に入る。是の時若し生空滅尽定ならば、六識及び我相応末那皆な滅す。豈に三昧の体有らん乎。若し法空滅定ならば、六識并に有漏の末那皆な滅す。亦た[9]豈に三昧の体有らん乎。然るに今定と名づくるは、彼の厭心の種子の遮防の功能の上に立つる所なり。

七、無想果。謂く無想天の果報なり。或る外道、無想天の果報を欣い、無想定を修習せんに、此の定力に依るが故に命終の後彼の天に生ず。然して彼の天は定の如く又た無心なり。惣報[10]は第八識なるが故に相違無しと雖も、別報に於ては既に無心なり。何を以て別報の識と為さん哉。故に亦た是れ種子の遮防の用の上に之れを立つるなり。
 いわゆる正義の意は、無想天に初めて生ずる時及び退没する時の二時とに転識起こるが故に、初めて彼の天に生ずる時転識暫く起こる。則ち異熟無記なり。第六識起きて終に滅し、滅し畢りて無心に入り了る。是の時彼の第六識の報心の種子の上に遮防の用有り。此の用に無想の別報を立つるなり。無想天とは、色界第四禅の八天の中、第三天を広果天と名づく。彼の天の中に別に高楼有り。則ち是れ無想天なり。

八、名身。謂く声の上の屈曲なり。

九、句身。前に同じ。

十、文身。前に同じ。
〈已上の三法は皆な声の上の屈曲なり。差異無きに似ると雖も、而も分ちて三と為す事は、名は自性を詮じ、句は差別を詮ず。文は是れ字なり。名・句の所依なり。故に開きて三と為す。〉

十一、生。謂く有為法の生想なり。

十二、老。謂く有為法の滅想なり[11]。

十三、[住。]

十四、[無常。]
 今此の四相は、一期の四相と刹那の四相と有り。一期の四相とは、且く人の一期なり。生より滅に至る間の四相なり。刹那の四相とは、一刹那の中に此の四相有り。一念に前後無しと雖も義を以て四相の次第を安立するなり。

十五、流転。謂く有為法の惣の流転の相なり。

十六、定異。謂く諸法各別の相なり。

十七、相応。心王・心所一集の倶時にして時同・依同・所縁等・事、此の四義を具する分なり。

十八、勢速。謂く諸法の迅速を勢速と名づく。

十九、次第。謂く物の階級・前後なり。

二十、方。謂く東西南北等なり。

二十一、時。謂く昼夜時分なり。

二十二、数。謂く一二等の数なり。

二十三、和合性。謂く諸法和合の分なり。

二十四、不和合性。謂く前に翻ず。
〈已上、二十四不相応の事。〉

【現代語訳】

心不相応行法(二十四)

 次に二十四不相応行法とは、[次の通りである。]

一、得。ある人が金銀などの宝を得た際、獲得する主体は人であり、獲得されるものは金銀である。獲得する主体と獲得されるものとを離れて、別に獲得という本体は無い。しかし、獲得というあり方が無いわけではない。そこで、この獲得というあり方を取って「得」を立てる。「聖道を得る」、「無為を得る」ということもみなこの例にならって知るべきである。ゆえに、この[得という法は]色・心という実法の上に[仮に立てる]あり方であって、別の本体が無いから仮法である。その仮法の分は、色でも心でもない[ゆえに心不相応行法に摂められる]のである。

二、命根。生き物(有情)の寿命のことである。これは、第八識の能生の種子(名言種子、直接的な原因となるはたらき)が[五趣・六道のうち]一つの生存領域(一処)を生起(現行)させて、[その生存領域における]一生涯の感覚器官および身体などを保持して留まらせる働きを「命根」と名づけるのである。ゆえに、『成唯識論』巻一には「この[第八]識を生起する種子に依って、[善悪の]業によって引かれた作用や差異が留まる時期が決定することを、仮に命根として立てる」とある。
 そもそも、第八識の原因[としての作用、すなわち種子]には二種類がある。
 一つには名言種子。第八識の直接的な原因(因縁)である。この名言種子の性質は異熟無記である。親しく自分の異熟無記の果報を用意するから、親因縁とも名づける。これが正因である。
 二つには業種子。善悪の思[の心所と相応して起こす業]の種子である。疎に異熟無記の果報を感じるので間接的原因(増上縁)、すなわち傍因である。因は善悪でもその果報は[善でも悪でもない]無記である。故に[果報を]「異熟」と名づける。「異」とは別異という意味である。「熟」とは成熟という意味である。その果報は、因の[善悪の]性質と異なって成立するので[異熟無記という]名前とする。したがって、善悪の業は資助・助法であり、異熟無記の種子[すなわち名言種子]は[善悪の業である業種子に]助けられ[て生起す]る。善悪の業は異熟無記の種子を助けて、異熟無記の種子を現象(現行)を生じさせるのである。
 さらに、この異熟無記の法には惣・別という[二つの]果報がある。惣報は第八識、別報は異熟無記の第六意識と感覚器官(正根)と[その器である眼、耳といった]扶塵根、別しては環境世界(器世界)である。扶塵根・器世界は、その本体は[色・香・味・触という]四つの認識対象(塵)であり、ある時(音を伴う時)には声塵を加えて、総じて論じれば五塵である。
 このような惣報・別報はみな性質としては[異熟]無記であり、おのおのに直接的原因(親因縁)となる種子がある。この異熟無記の種子は勢力が微劣で、他[すなわち業種子の]助けを受けなければ現行することができない。[一方]善悪の種子は勢力が強く、これ(異熟無記の種子)を助けることによってはじめて現行が生じるのである。
 さらに、この異熟無記の法には惣・別という[二つの]果報がある。惣報は第八識、別報は異熟無記の第六意識と感覚器官(正根)と[その器である眼、耳といった]扶塵根、別しては環境世界(器世界)である。扶塵根・器世界は、その本体は[色・香・味・触という]四つの認識対象(塵)であり、ある時(音を伴う時)には声塵を加えて、総じて論じれば五塵である。
 このような惣報・別報はみな性質としては[異熟]無記であり、おのおのに直接的原因(親因縁)となる種子がある。この異熟無記の種子は勢力が微劣で、他[すなわち業種子の]助けを受けなければ現行することができない。善悪の種子は勢力が強く、これ(異熟無記の種子)を助けてはじめて現行が生じるのである。この善悪の業において、善業の中に天・人などの不同があり、悪業の中に地獄・鬼畜(餓鬼・畜生)などの不同があり、生起する現行にも[天・人間・餓鬼・畜生・地獄]という五つの生存領域(五趣)の区別がある。悪業が助けて現行する無記種子によって生起する果報は好ましくないもの(非愛)である。別報について言えば、牛馬といった姿や[地獄の]刀山といった器世界である。総報は第八識である。[そのあり方は]微細であって[凡夫には]知る事ができないが、その分限は有る[と推察される]。もし善業が助け[て現行す]るところならば、生起する果報は好ましいもの(可愛)である。別報について言えば、天・人などの姿や、花林菓樹といった器世界である。第八識[である]惣報について知ることができないのは同じである[12]。
 異熟無記[である名言種子]は六識別報の主であるが、善悪趣の差別もあるのだろうか。この可愛・非愛は善悪という性質ではない。その性質は無記であるから。しかし[間接的原]因である善悪に従って善趣・悪趣と名づけるのである。

 

問答(1)無記について

 問う。無記というのはすべて異熟無記のことなのか。
 答える。そうではない。無記には二種類がある。
 一つには有覆無記。煩悩・随煩悩と、それらと相応する心・心所法の中で、極悪でないもの[13]は、性質として汚れた性質(染汚)であっても悪とは名づけない。悪と名づけないといっても、自心を隠蔽[して涅槃と菩提を障礙]するから有覆無記性の法と名づける。「覆」とは覆い隠す(隠蔽)という意味である。
 二つには無覆無記。その性質としては染汚ではないといっても、澄浄ではないので善でもない。善ではないといっても、自身を隠蔽しないので無覆無記と名づけるのである。

問答(2)四種類の無記について

 問う。無覆無記はすべて異熟無記なのか。
 答える。そうではない。無覆無記に四種類がある。
 一つには異熟無記。上に明かしたとおりである。
 二つには威儀無記。[歩く・とどまる・座る・横になる(行住座臥)という]身体的動作(威儀)を起こす心である。
 三つには工巧無記。[書く、描く、彫刻といった身体的行為や声を出したり歌ったりする]工巧を発す心である。
この威儀・工巧の心の中に善悪の心が起こすことが有るけれども、今は無記の心について言うのである。
 四つには変化無記。また通果無記とも名づける。瞑想状態に入った人が瞑想から出る時に[人物や宮殿を変現させたり、光明・妙音を出したりする]神通力による変事をあらわす心である。この中にも善悪を起こすことがあるけれども、今は無記を取る。〈以上、総じて無覆無記を開いた中の四無記である。〉

三、衆同分。人と人が互いに似ており、天と天が互いに似ているなど[同一の界趣の有情が似たような姿形であったり、畜生趣のうち牛なら牛という種に共通する特殊性]のことである。ゆえに、相似という意味を取って衆同分と名づける。どうして[衆同分という]実体が有るだろうか。[したがって、心不相応行法として仮に立てるのである。]

四、異生性。未だ悟っていない者としての性質(凡夫性)である。異生とは凡夫の異名である。凡夫が凡夫であることは、初[めて]無漏[の種子が現行すること、すなわち見道]を障礙する煩悩の力による。したがって、初無漏を障礙する煩悩の種子の上に異生性を立てるのである。
ひとたび無漏[の種子]が現行すれば、それ以降は聖者と名づけられる。未だかつて無漏[の種子]が現行しない間は、無始よりこのかた凡夫である。ゆえに、初無漏を障礙する煩悩の種子の上に凡夫としての性質を立てる。[例えば第六意識が働かない深い瞑想状態や深い睡眠、気絶状態など]煩悩の現行には間断があるから、種子の上に異生性を立てるのである。

五、無想定。仏教外の修行者(外道)が入る、心の働きがない瞑想状態(無心定)である。ある外道が「想念こそが生死の根源である。想念を滅すれば涅槃を得るだろう」と執着して思いを凝らし心を止め、たびたび無心に入ることを欣い、このようにして[次第に心の働きを微細にして行き、無想定の二刹那前の]微心から[一刹那前の]微微心に至り、遂に無心に至る。この無心の位に[眼識から意識までの]六識はすべて滅する。どうして三昧の本体があろうか。[というのは]定とは、第六意識と相応する[別境の]心所であるが、六識がみな滅する位には[第六意識と]相応する心所も決して起こらないからである。それでも無想定と名付けるのは、その[想念を]厭う[微微]心[が熏習する]種子が[六識および相応する心所の現行を]妨げる働きについて無想定を立てるのである。想の滅を上位とするので、無想と名付ける。

六、滅尽定。いわゆる聖者が入る、心の働きがない瞑想状態(無心定)である。[欲望の世界に二度と戻らないという]不還果以上の人(聖者)が[寂静を求めて]心の働きを止息することに集中して無心三昧を欣い、[次第に心の働きを微細にして行き、滅尽定の二刹那前の]微心から[一刹那前の]微微心に至り、遂に無心に入る。この時、若し生空の滅尽定であれば、[眼識から意識までの]六識と、阿頼耶識を自分の本体だと執着する我見と相応する末那識(我執相応の末那)[の働き]が全て滅する。どうして三昧の本体があろうか。若し法空の滅定ならば、六識と[四つの煩悩と相応する]有漏の末那識が全て滅する。これにもどうして三昧の本体があろうか。そこで、滅尽定という名称は、その[受・想を]厭う[微微]心の種子が[六識および六識と相応する心所と、末那識と相応する四つの煩悩の現行を]妨げる働きの上に立てるのである。

七、無想果。無想天の果報である。ある外道が無想天の果報を欣い、無想定を修習する。この瞑想の力によって、[ある生存領域での]寿命を終えた後、無想天に生まれる。しかし、無想天は[常に無想]定のように無心の状態である。惣報は[無想定の一刹那前の微微心である善の思の心所によって引き発こされた]第八識であるから[六識の現行が無い無心の状態であっても]矛盾しないが、[第六意識としての果報である]別報は無心であるのに、何をもって別報の識とするのか。そこで、これも[無想定によって熏習された]種子が[六識の現行および相応する心所を]障礙する作用の上に立てる。
 [法相宗としての]正統的解釈(正義意)では、無想天に初めて生まれる時と、[五百大劫の寿命を終えて]天を去る(退没)時との二時とには意識(転識)が起こる[14]。初めに、無想天に生まれた時には第六意識がわずかの間生起する。これは異熟無記である。第六意識が起こり、ついには滅し終わって無心に入るが、この時の第六意識の報心の種子の上に[第六意識および相応する心所の現行を]妨げる働きがある。この[種子の上の]妨げる作用の上に無想[天]の別報を立てるのである。
無想天というのは、[三界のうち]物質的世界(色界)の第四禅のうち第三天を広果天というが、その天の中に別して高楼がある。それを無想天というのである。

八、名身。音(声)の上の屈曲である。

九、句身。上に同じ。

十、文身。上に同じ。
〈以上の[名・句・文の三法はすべて音の上の屈曲である。違いが無いように思うが、三つに分けるのは、名は事物の名称(自性)を表し、句は[文章の集まりとしての]相違(差別)を表す。文は文字のことである。名・句の拠り所となる。そこで展開して三つとするのである。〉

十一、生。現象世界(有為法)が[前には無かったのに今]生起するという表象のことである。

十二、老。[有為法が変異するという表象である。]

十三、住。[有為法がしばらくとどまって変異しない表象である。]

十四、無常。[今あった]有為法が滅するという表象のことである。
 今、この四相は、[生物の]一期の四相と、一瞬間(刹那)の四相とがある。一期の四相とは、人の一生のことである。生まれてから[変化し、とどまり、死んで]滅するまでの四相である。刹那の四相とは、一刹那の中にこの四相がある。[現在のみが存在し、過去と未来は実在しないから]一瞬間の間に前後はないけれども、道理として四相の順番を[仮に]設定するのである。

十五、流転。[原因と結果という]有為法が継続して起こる(流転)様相である。

十六、定異。諸法[における善悪の原因とその結果としての]のあり方が異なることである。

十七、相応。心王と心所法との一つの集まりが同じ時に、時同(心王・心所が同一刹那に生起すること)・依同(生起するための依処となる認識器官および一刹那前の自識である意根が同じであること)・所縁等(相分が相似していること)・事[等](心王一つに対して相応する心所の集まりが一つずつであること)という四つの条件を満たすことである[15]。

十八、勢速。諸法[の因果の相続]が迅速であることである。

十九、次第。物の階級や前後などの順序のことである。

二十、方。東西南北などの[方角]である。

二十一、時。昼夜などの時間のことである。[また、過去・現在・未来のことである。諸法の因果相続の上に仮に立てる。]

二十二、数。一、二…といった数のことである。

二十三、和合性。諸法が和合[して因果が生起]することである。

二十四、不和合性。和合の反対で[諸法が乖離することで]ある。

【書き下し】

次六無為者

一、虚空無為。謂く無相周辺にして諸の障碍を離るるが故に、真如を仮に虚空無為と名づく。

二、択滅無為。謂く智恵の簡択力に由りて諸の雑染を滅し、究竟に証会せるが故に、真如を仮に択滅無為と名づく。

三、非択滅無為。謂く智恵の簡択力に由らずして本性清浄なり。或いは縁闕不生の時に顕わるるなり。故に真如を仮に非択滅無為と名づく。

四、不動無為。謂く苦受・楽受の滅する時に顕わるるなり。故に真如を仮に不動無為と名づく。重意に云く、苦楽受は変異の法なり。其の性は動転なり。今此の動転を離るるが故に不動と名づくるなり。

五、想受滅無為。謂く想受の行ぜざる時に顕わるるなり。

六、真如無為。謂く前の五種の無為の所依なり。真実如常の理なり。但し一の実性を論ずれば、真如の名も亦た是れ仮説なり。真勝義の中に、有を離れ、無を離れ、有に非ず、無に非ざるを何ぞ説きて真と為し如と為さんや。然り而して理は妄倒に非ざるが故に、仮に真如と名づくるなり。

【現代語訳】

無為法(六)

 次に六無為とは、

一、虚空無為。すがたかたち[や物質的質量]がなく、空間的な広がりが無限であり[煩悩障・所知障といった]諸々の障碍を離れているので、真如を仮に虚空無為と名づける。

二、択滅無為。智慧(別境の慧)のものごとを判断して選り分ける力によって諸々の雑染[である見るもの・見られるものといった認識構造]を滅し、究極[である真如]を証することによって真如を仮に択滅無為と名づける。

三、 非択滅無為。智慧の選り分ける力に由らず、[真如が]本来清浄であることをいう。また、間接的原因がないために[有為法が]現象しない時(縁闕不生)にも顕現する。ゆえに真如を仮に非択滅無為と名づける。

四、 不動無為。[身体的・精神的な]苦しみや楽を滅する[色界第三禅以上の瞑想状態の]時に顕れるので、真如を仮に不動無為と名づける。重ねて言えば、苦や楽といった感覚は変異するものであり、[変異するものの]性質は動転することである。そこで、この動転するものを離れるから真如を仮に不動と名づけるのである。

五、 想受滅無為。[遍行の心所である]想・受[という認識に伴う基本的な作用]が発現しない時[すなわち滅尽定の際]に顕れるものである。

六、真如無為。前述の五種類の無為の拠り所である。真実にして常に変異しない(如常)真理である。但し、唯一の拠り所について言えば、真如という名称もまた仮構されたものである。最高の真実(真勝義)は有を離れ、無を離れ、有でもなく、無でもないものである。[そのように有るとか無いとか言語表現できない最高の真実を]どうして真実であって常に変化しないものと言えようか。しかしそれでも、真理は虚妄ではないから、仮に真如と名づけるのである。


脚注


[1] 底本「所謂」を京大本に従って改めた。
[2] 底本「異熟無起」を京大本に従って改めた。
[3] 底本、京大本とも「異無記」。文意に従って「異熟無記」とした。
[4] 底本「想」を京大本に従って改めた。
[5] 底本「知報」を京大本に従って改めた。
[6] 底本「勢力施強」を京大本に従って改めた。
[7] 底本「因」を京大本に従って改めた。
[8] 底本「故」を京大本に従って改めたが、文意は通る。
[9] 底本「名」を京大本に従って改めた。
[10] 底本「想報」を京大本に従って改めた。
[11] 十三、十四の住・無常、底本・京大本ともに無し。脱遺か。老の説明にあたる「有為法の滅想なり」は無常の説明であろうが、ここでは底本に従って老の説明としておく。
[12] 『成唯識論』巻二によれば、第八識及び相応する心所にも自証分から転じた見分と相分があり、見分が相分を認識する。相分は執受=正根・扶塵根と種子および処=器世界とされるが、その認識のあり方は不可知であるという。
[13] 煩悩および随煩悩のうち自性として不善のものは瞋および瞋を本体とする心所のみである。上巻参照。
[14] 『成唯識論』巻七。
[15] ここでの相応の説明はいわゆる四義平等、すなわち心法―心所法の結びつきという意味での相応についての説明であり、心不相応行法の説明としてはふさわしくない。心不相応行法における相応(yoga)は通常、原因と結果が対応していることをいう。
「相應者。因果事業和合而起。或曰。此之總名不相應行法。今名相應者何耶。蓋名不相應者。簡前相應心所而已。此相應者。乃前三法上事業和合之謂。豈相濫乎。」(『大乘百法明門論解』)

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