中世の飢饉と人身売買——「うは太郎母人身質券」を読む

2021年12月の史料講読会で発表したレジュメ。
『南北朝遺文』九州編第一巻、1165号「うは太郎母人身質券」を読みながら、中世の飢饉と人身売買について調べたもの。


「うはたらうわらわのせうもん(証文)」(端裏書)
いけはたとのゝ御うちに、子息うはたらうわらわ生年九になり候を、ようとう(用途、銭の事)二百文にいれをきまいらせ候事、
右、今年ハきゝん(飢饉)にて候ほとに、わか身もかのわらはも、うゑしぬへく候あいた、御うちにおきまいらせ候、たゝしたうし(当時)の二百文は、日ころの二くわん三くわんもんにもあたり候うゑ、さうせいと申、かのきゝんに給ハり候御をん(恩)をわすれまいらせ候て、もしらい九月中にふほうなる事候はゝ、かのわらわをゑいたい(永代)をかきりてさうてん(相伝)の御との人をめしとらせまいらせ候へきなり、又かの御ようとうは、らい九月にいちはい(一倍)をもてわきまゑ申所ちゝなり、もし又九月中すき候はゝ、このしやうをはうけん(放券)として、ゑいたいをかきて(永代を限って)かのうはたらうわらわをさうてんふくしせられまいらせ候へきなり、よて状如件、

建武四年四月八日              うはたらうかはゝ(花押)

(『南北朝遺文』九州編第一巻、1165号「うは太郎母人身質券」、大隅池端文書)

概要

 建武四年(1337)年の飢饉によって「わか身もかのわらはもうゑしぬへく候」という状況に追い込まれた「うは太郎か母」が大隅禰寝氏の分家である池端氏に、子息である「うは太郎」を質に入れて「らい九月」を限って一倍、つまり400文を返済することを条件に用途200文を借りた借用書。半年後の期限までに所当の代金を用意できなかった場合、この文書を放券として永代を限り子息の進退権を放棄する(うは太郎を手放す)と明記されている。

飢饉は本当にあったのか?

 中世の売券や借用書は買い手によって作成されることが普通であった。
中世において、「限り有る所当公事を対捍するの時、其の弁を致さしめんが為に身代を取らしむるの条は定法」[1]であり、後述するように飢饉の際の人身売買は慣習法として認められていたから、あるいはこの文書も池端氏が飢饉を名目にうは太郎を人質としてその母親に200文を貸し付け、半年以内に倍額にして返済できなければ「譜代相伝」の下人として召し使う旨を強制的に約束させたものとみることもできよう。
 しかし、暦応元年(1338)十一月十二日、乙女が、父親に捨てられて以来女手一つで育ててきた七歳の息子・徳童の養育が困難になったため、「重代相伝」の下人として進退させることを約した放状(『林家文書』)には「建武五年大飢饉ニセメラレテ他国ヘ流浪」したと記されており、『妙顕寺文書』にも「京中飢饉夥し」とあるように、1337~1338年にかけて各地で飢饉が発生していたことは事実で、息を質に入れなければ親子ともに餓死するような状況は建武四年にも実際に起こっていたと思われる。

飢饉の実際

 飢餓のため子息を手放す旨が記されている文書は端境期にあたる3~4月、11~12の日付を持つものが多い。
たとえば、元徳二年(1330)三月二十五日、讃岐国草木庄住人藤六・姫夜叉夫妻が八歳になる子息・千松童を同国詫間庄仁尾村の「平地大隅殿」に500文で売り渡した文書[2]にも「件の童、餓身にハつふられ候ぬ、身命たすけかたく間」、「かやうに飢身ヲ助からんかためにて候上は、この童も助かり、わか身ともに助かり候うへハ」、などと、飢饉に際して親子が助かるために子息を売り渡すことが繰り返し書かれている。
 端境期に食糧が尽き、食べるものがなくなった人々は山に自生する「苗代グミト云物ヲクヒテ」田を植えたり、地中から「ツミト云物」を掘り出して食べたり[3]、「或いは山野に入って薯蕷野老を取り、或いは江海に臨んで魚鱗海藻を求」めてなんとか「活計」を支えていた[4]が、それでも限界があった。
「わか身もかのわらはも、うゑしぬへく候あいた」、「この童も助かり、わか身ともに助かり候うへハ」といった飢饉時の人身売買文書に見られる定型的な文言は、買い手側によって書かされたものではあったとしても、中世の生活の厳しい事実であった。

寛喜の飢饉と人身売買

 そもそも、人身売買は「禁制殊重」、「禁制重畳」と記されるように本来違法行為であった。
 しかし、異常気象に始まり京都をはじめ全国的に餓死者が溢れ、「天下の三分の一の人種」が亡くなった[5]とされる寛喜の飢饉に際して、鎌倉幕府は「而寛喜飢饉之境節、或沽却子孫、或放券所従、充活命計之間、被禁制者、還依可為人之愁歎」(追加法)と、子孫や所従を売却しなければ親子・主従ともに「活命」できないことを理由に例外的に人身売買を公認するに至った。
 寛喜の飢饉から十年が経ち、「世間が本に復した」延応元年(1239)には、売却した家族や下人を取り戻そうと訴訟が相次ぎ、大きな社会問題に発展した[6]。幕府は以後の人身売買を禁止するとともに、次のような法令を発布した。

① 飢饉に際して餓死しそうな人を買い取り、身柄を引き取った者の「養育の功労」を認め、「主人の計」(進退権)を保証し、
② 飢饉時に暴落した相場の値段(「其時減直の法」)で買い戻すことを禁止したうえで、
③ 双方合意の上で現在の適正な価格(「当時の直法」)に則って買い戻すことは認めた[7]

「うは太郎母人身質券」に、
① 飢饉時の200文は2~3貫にあたること
② 飢饉時の恩を強調していること
③ 九月に必ず一倍をもって返却すべきこと
が明記されているのは、このように、飢饉の時だけ養育させておいて、後日飢饉時の値段で買い戻そうとする行為が頻発していたことを背景として、買い手である池端氏の要請によって書き入れられたものだと推測できる。

「中世の生命維持の慣習」としての人身売買

 その後も幕府は度々人身売買を禁じる法令を発布するとともに、「人勾引」や「賣買仲人」の交名を提出させ、関東に召し下すよう指示を出したり、人身売買されたものは見つけ次第解放するよう「路次関々」に指示せよとの御教書を六波羅探題に申し送ったり[8]、然したる由緒なく召し使う者を十年が経ったから譲与や売買の対象となる「相伝」の所従と号して沙汰を経ることを禁止しており[9]、仁治三年(1242)正月十五日に発布された「新御成敗状」では今後は人を売った者も買った者も罪科に処すと定めている[10]
寛元三年(1245)二月十六日には「御成敗状追加」として、

①養子に取った者をその「進退者」と称して売買してはならないこと
②身寄りのない飢人(「無縁非人」)については売買や子孫への相伝を認めるが、親類縁者(「親類境界」)はその一生の間だけ召し仕い、売買や相続も禁止すること
③人身売買について、延應元年五月一日の「御制」以前については、買い戻す時に代金を買い手に糺返すべきであるが、「御制」以後に売買した者は本主に返さず、祇園清水寺の橋の用途に宛て、売買された者は本主に返さず、放免すべきこと、を定めている[11]

 このように寛喜の飢饉から十数年経ったのちも人身売買をめぐる社会問題は幕府を悩ませ続けたが、「凡人倫売買事、禁制殊重、然而飢饉年計者、被免許歟」と、飢餓の時に限って人身売買を認めた先例は、「飢身相伝」という文言が人身売買文書にしばしば記されるように慣習法として定着した。
遠く江戸時代、寛永二十年(1643)の飢饉に際しても「当年中、夫食に詰まり、かつえに及び候者、在々所々にこれ有るの由、相対次第に、かい(養)筋に致し、以来、その者の譜代にいたし、召しつかい仕り候へ」という法令が出されている。飢饉という非常事態に際して行われた人身売買は、「生命維持の習俗」として中世を通じて生きていた[12]

下人の生活

 鎌倉後期~南北朝時代における子どもの人身売買の相場は男女を問わず2貫文程度であった[13]。元亨四年(1324)十一月十九日付「女子いぬまさ売券」では十歳以上になるいぬまさ女が身代2貫200文で売られている(『金沢文庫文書』5340号)し、観応三年十月二十二日付「つちはう童売券」でもやはり身代は2貫文であった。
 「うは太郎母人質売券」にも記されるように、飢饉時には相場が暴落し、相場の10分の1にあたる200文や、5分の1の500文[14]という値段で取引されていた。
 2貫文は現代の相場に換算するとだいたい20万円程度になる[15]から、200文は2万円、500文は2万円程度となる。有力者にとっては安価であっただろうが、身代を支払ってまでなぜ買い手は子供を買ったのであろうか。
「譜代下人」として買得された下人はその子供や孫など永代を限って相続や売買が認められていた[16]から、将来の労働力を確保するためということが考えられるが、斉藤研一は中世における「子どもの労働」という観点から次のように述べている[17]

幼い子どもでありながらも人身売買の対象となり得たのは、将来の労働力として見込まれていたことはもちろんだが、少なくとも中世の農山社会においては「子どもの労働」が存在し、子どもなりの労働価値を持っていたからなのではないだろうか。…(中略)…子どもには労働力としての商品価値が十分にあったものと考える。

斉藤研一「働く子ども——売買される子ども——」(『子どもの中世史』吉川弘文館、2003年)

 斉藤によれば、中世において子どもは男子は草刈り、芝刈り、松葉拾いとそれらの運搬、女子は桑の菜摘みや潮汲みといった説教節から伺える労働に加え、近世の農書にみえる牛馬の扱いと運搬、草刈りといった作業にも従事したと推測している。

下人のゆくえ

 うは太郎はその後どうなったのであろうか。「うは太郎母人身質券」が現代まで池端氏のもとに残っていることから、結局うは太郎の母は身代金を払えず、うは太郎は池端氏の相伝の下人となり、上記のような労働に従事しながら、「孫子曾孫の代まで使われた」ものと思われる。
鎌倉末期、安芸国の在庁官人田所氏の譲状には召し使う所従・下人の由緒まで書き記されている[18]。この譲状のように、おそらくうは太郎もこの人質質券とともに池端氏に相伝されたと推測されるが、うは太郎のその後を語る史料は何も残っていない。

下人の行方は、誰も知らない。

脚注


[1] 『中世法制史料集』第一巻、鎌倉幕府追加法287条(以下、追加法〇〇条と記載)。石井進「身曳きと“いましめ”」(『中世の罪と罰』東京大学出版会、1983年、のち講談社学術文庫)によれば、この「定法」のように、債務の返済が困難となった債務者が債権者に隷属する「役身折酬」の法は『魏志倭人伝』に淵源をもつ原始的な法慣習であったという。

[2] 「藤六・姫夜叉女子息童売券」(『讃岐賀茂神社文書』)。『鎌倉遺文』30991号。棚橋光男「人身売買文書と謡曲隅田川」(『香川大学一般教育研究』第十六巻、1979年)

[3] 『沙石集』巻第六(九)、「寛喜年中ニ、上総国ニ山賤アリケリ」(岩波書店、日本古典文学大系本、268頁)。この「山賤」は空き腹に「苗代グミ」を食べ過ぎて腹が膨れ、胸がつかえて死んでしまった。

[4]追加法323条。正嘉三年二月九日、幕府は飢饉に際して山や川、海などでの「活計」を地頭が禁遏することを禁止し、浪人の身命を助けるよう命じた。

[5] 「同三年庚刁(辛卯)夏、天下一同飢饉、馬牛肉食、又諸国大鼠多出来、五穀實喰失、天下人種三分一失」(『立川寺年代記』)天下一同の飢饉に際して、牛馬の肉を食べたとあることは注目される。平安期に馬肉は刑罰の一種として食べさせられることがあった。

[6]延應元年五月一日付追加法114条。六波羅探題に申し送った関東御教書に、
「人倫賣買事、禁制重之、而飢饉之比、或沽却妻子眷屬、助身命、或容置身於富徳之家、渡世路之間、就寛宥之儀、自然無沙汰之處、近年甲乙人等面々訴訟、有煩于成敗、所詮於寛喜以後、延應元年四月以前事者、訴論人共以京都之輩者、不能武士口入、至関東御家人與京都族相論事者、任被定置當家之旨、可被下知、凡自今以後、一向可被停止賣買之状、依仰執達如件」
とあり、寛喜の飢饉に際して「近年甲乙人等面々訴訟、有煩于成敗」ような状況であったため、京都での訴訟への指示と今後の人身売買の禁止を命じている。同月六日の追加法115条には「人倫賣買事、…(中略)…於今者、任 綸旨、重可被下知之由、被仰下也」とあり、おそらく幕府の働きかけで人身売買を再度禁止する綸旨も発布されていたことがわかる。

[7]延応元年四月十七日付追加法112条。
「寛喜三年餓死之比、為飢人於出来之輩者、就養育功労、可為主人計之由、被定置畢。凡人倫売買事、禁制殊重、然而飢饉年計者、被免許歟、而就其時減直之法、可被糺返之旨、甚無其謂歟、但両方令和與、以當時之直法、至糺返者、非沙汰之限歟」

[8] 仁治元年十一月廿八日付追加法156条。

[9] 追加法170条。

[10] 仁治三年正月十五日付追加法178条。

[11] 寛元三年二月十六日付追加法239~244条。

[12] 藤木久志「中世の生命維持の習俗」(『飢餓と戦争の戦国を行く』朝日新聞社、2001年)

[13] 棚橋光男、前掲

[14] 前掲[2] 「藤六・姫夜叉女子息童売券」

[15] 清水克行「飢身を助からんがため……」(『室町は今日もハードボイルド』新潮社、2021年)

[16] 『さんせう太夫』に「孫子曾孫の代までも、譜代下人と、呼び使おうことの嬉しさよ」とある。

[17] 斉藤研一「働く子ども——売買される子ども——」(『子どもの中世史』吉川弘文館、2003年)

[18]正応二年正月廿三日付 「沙弥某譲状」(『田所文書』)。
このうち南濱乙若丸の由緒について、「件奴祖父宗門、引進己身於銭五貫文代畢、其上者、召仕彼子孫之条勿論也。而宗門死去之後、宗遠俄為地頭仕部之由令申之間、所詮、可糺返宗門身直銭十貫〈本五貫〉文之由令下知之間、引進件乙若丸者也、子息等依有其數、任傍例、出一人子於地頭方之上者、非沙汰之限由、令問答畢」と、乙若丸の祖父・宗門が自身を五貫文で身曳したため、その子孫は当然召し使うべきものであるが、宗遠(宗門の子)が俄かに地頭の仕部であると号して田所氏の支配から逃れようとしたため、宗門の代金十貫文(もと五貫文を一倍した)を出すよう下知したところ、その息子の乙若丸を引進めた、とある。宗遠が息男乙若丸を進めたのは年次未詳幕府追加法七三四条に「於質所令生子者、辨銭令出其身之時者、彼子可為主人之進退」とあることを踏まえているのだろう。

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