what is love? 愛と好きと好きじゃない

私の週課(辞書にはこの言葉は載っておらず単に表現しやすいため使っている言葉:日課の一週間版)は二つある。正確にはもっとあるはずだが曜日も決まって行うことは二つ。ひとつは『内山昂輝の1クール!』を聴くこと、もうひとつは『内山昂輝のオドリバ』を読むこと。どちらも内山昂輝さん(以前のnoteで詳しく書きました?)が行われている媒体で前者はラジオ番組、後者はnoteなのである。これはどちらも更新される曜日が決まっているので正確には火曜日と木曜日がそれぞれのタスクを行う日である。(ラジオ番組はPodcastで聞いているため。)

どちらもしなければならない、強制を用いるものではないが趣味・娯楽目的で行っている。毎週の楽しみと言ってもいい。

そこで今回文字にしようと思ったのは先日の『内山昂輝の1クール!』#331の回でパーソナリティを務める内山昂輝さんが「(大)ファン」「好き」という言葉について言及していたのでその感想と自論をこそこそ綴ろうかと思い至った。

愛だの恋だの好きだの無関心だの世の中は大変だ。気持ちを表現するのにいくつ言葉をつなぎ合わせなければならないのだろう。しかし、本は幾千とある中でどの言葉を駆使して表現しているのかと一文に感銘を受けたり不意を突かれたりする。愚直と素直の狭間を繊細に表現する作家さんもいれば、あえて乱雑に書くことで読者に混乱と伏線をもたらす人もいる。そういうものに私は惹かれる。触れていたいと思う。言葉の海を彷徨いながら深海魚を発見した時の喜びは計り知れない。こんなところまで来てしまったのかと、思う。それはまるで夜空に届かない六等星の星を見つけたような、クリスマスにサンタと出会えたような、もうそれを知る前の自分には戻れず、少しの発見してしまった絶望とその先にあるその言葉の可能性について私は考える。そして自身の言葉の陳腐さに憂い、他者の言葉の新味に感服する。

彼は番組内でアーティストにしろグループにしろ其れに関する情報や作品について網羅している必要が「ファン」と名乗る上で必要なのだ、と発言していた。そうでなければ「好き」なのだと。私もそこに共感する部分がある。英語でbe crazy about~という表現がある。訳すと、〜に夢中だ、ぞっこんだ、首ったけになる。この状態は何というかもう好き過ぎて周りが見えない状態を表現している。一方でfanという表現もある。しかし、私見ではあまり使われているイメージはなく例えばネット上でのfan artと何かの二次創作をしたりトレスしたものに関して自身が創作をおこなったものに対してハッシュタグなどで分類するのに利用されている場面を見かけることの方が多い。また、fanとはfanaticという言葉をルーツに持ち、その意味は狂言者とか熱狂的愛好者、マニアというニュアンスになる。はて、日本語にはまだまだ類似した表現がある。「〇〇担」「推し」など本当に難しい。担とは担当からきた短縮語であるわけだが概ね複数人で構成されたグループなどの中のメンバーの一人について自身をファンであるときに表現することに使われることが多いだろう。では、ファン・推しの違いとはこれいかに。話を戻そう。内山さんが言及していたのは「ファン」と「好き」について。どちらも状態を表しており、継続はされていても連続していない。確かに、「ファン」と聞くとファンクラブに入会していたり作品を購入したり鑑賞したり言わば「ファン」になっている相手のことなら何でも知っているエキスパート<専門家>のように感じる。一方、「好き」となると多くの好きなもののひとつのようなニュアンスに聞こえる。それではファンと好きとの間に大小の差はあるのだろうか。ただ、この二つの大きな違いは他者からの評価があるかどうか。不適切な表現かもしれないが、例えば

「彼女は亀の大ファンだ」

よりも

「彼女は亀が大好きだ」

と表現される方が幾分か自然だ。という具合のニュアンスの違い。そして私は内山昂輝さんが好きだ。

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