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同行家臣 松蔵右近重信!

まだ、紹介していなかった武者行列をするのは
私、いや…💦この、伊賀国主 筒井定次が重臣 名張城城主 松蔵右近大夫重信が務めまする。
松蔵右近は筒井の右近左近の両翼の1人で片翼は嶋左近将監清興が務めており申す。

                     松蔵右近大夫重信

   馴染みの無い松蔵右近重信とはそもそも松蔵家は筒井定次の曾祖父の筒井順興の次男が松蔵秀政を名乗った事が最初で諸説あるのでわからぬが恐らくは病で目が見えなかったとかそそうをして筒井の家から出されたのであまり表沙汰に公表されてはいない。
その松蔵秀政の子が松蔵右近重信であるので筒井定次の養父、筒井順慶とは従兄弟と言っても良い存在で筒井定次より筒井家に近いのかもしれない。
そんな松蔵右近重信は朝廷からの官位 右近衛大将という大変、高等な官位を授かった武将で
明智光秀の与力大名であり織田信長から大和国の守護を任された大和国の大名となる時代から
筒井家に仕えた重臣である。
1559年には松永久秀と戦っていたが筒井家家臣 井戸良弘が多聞山城に攻めた際に松永に人質として預けていた松蔵右近重信の弟が殺害がされているが戦国の世の常と無理に割り切って
でも筒井家を支えた。

豊臣秀吉の命令で筒井家家臣の大名成という昇進策により後に筒井家が改易される事件を引き起こす中坊祐秀ら内衆11人と共に大和国高市郡越智を拝領され大名化し高取城を再建し高取城城主になったが1585年筒井家が国替で大和国から伊賀国、伊勢国、山城国合わせて22万石の拝領で伊賀国に移動となると松蔵右近重信、中坊祐秀、嶋左近清興らも伊賀に付いて行った。
実はこの時期に右近大夫を豊臣秀吉から授かっている。
豊臣秀吉という者は兼ねてより諸国の優秀な武将がいれば引き抜いてでも自分の家臣として引き入れたがったが上杉家の直江兼続、島津家の島津歳久などが良い例で主君を見限れない少数派の武将らはどんな恩賞を授かっても首を縦に振らなかった。
松蔵右近重信の父、松蔵秀政も右近大夫を朝廷から授かっており丁度、1583年に豊臣秀吉が筒井家家臣の大名成を行った直前に亡くなっているので松蔵重信としては代々、右近衛大将職の官位を授かり筒井の右近左近と呼ばれた筒井の武威、武名が喉から手が出るほど欲しがっていた筈である。
結果的に松蔵重信は豊臣秀吉の家臣になるのには首を縦に振っていないが右近衛大将職の官位を授かり松蔵右近大夫重信と名乗るようになった。

              キリスト教と伊賀国

   伊賀国に入った筒井定次は天正伊賀の乱で筒井家が進軍して何度も破壊し殺略の限りを尽くした伊賀の街並みや人々をまとめあげ、、、、
とはいえ、一朝一夕には行かなかっただろうが
筒井定次がとった策が正しかったのかどうかは今になってもわからないが、伊賀を破壊したのは筒井家が率いた興福寺門徒でありいわゆる仏教徒である。
兼ねてより家臣の三箇マンショという者にキリスト教のなんたるかを聞いていた定次は自身も長崎に行って洗礼を受け、キリスト教徒に改宗した。
ポルトガルのカトリック司祭で宣教師のルイスフロイスは改宗し伊賀にキリスト教を広める姿の定次を見て、人格の優れた人物として評価しているほか、キリシタン大名でありイエズス会宣教師オルガンティーノの操り人形だった高山右近も定次の人となりを評価していた。
この頃はキリスト教も日本国民を奴隷化して他国に売り飛ばそうとしていた時期なのでこれを止める為と宗教による反乱を防ぐために豊臣秀吉によるキリスト教徒への迫害、弾圧が始まった時期でもあった。
ある意味、これが松蔵家にとっても受難の始まりだったのかもしれない。


           島原の乱の発端は我が子、孫

   松蔵右近重信の嫡男、松倉重政は松蔵家を捨て、筒井家から出奔し筒井家の拠点でもある興福寺に入るその後、大和郡山城の豊臣秀長を頼り家臣となる。
この頃、同じく、豊臣秀長の家臣になっていたのは後に伊賀国主となる藤堂高虎がいた。
運命のイタズラと言わずにはおれまい…
   その後、徳川に仕えた松倉重政は肥前日野江藩初代藩主となり嫡男の松倉勝家と共にキリスト教徒を弾圧、子の松倉勝家はキリスト教徒となっていた民を雲仙普賢岳の火口に突き落とし殺すなどや冷たい水牢にいれた妊婦を水中で出産させて絶命させるなどした事が発端で起きたのが島原の乱であり、松倉重政はこの時には既に病没していたが松倉勝家はこの乱の発端人として斬首され松倉家は改易された。
その後、勝家の次男坊が旗本に任ぜられたが松蔵家や筒井家が受難の日々を送ってしまったのは定次がキリスト教に改宗したから?いや、恐らくは筒井家が織田の命令とはいえ伊賀に進軍し殺略を続けたから、それもあるだろう。
しかし、筒井定次はそんな場所をあてがわれる程、豊臣秀吉からの信用に厚かった秀吉も知っていた筈である。
織田信長の命とはいえ筒井家が伊賀に何をしたのか……
筒井定次自身は初めて入る国、されど筒井の名をつけて伊賀に入るのは民に取り殺される危険すらある。
そんな筒井定次を豊臣秀吉の大名成を蹴っ飛ばしてでも付いて行った家臣らがいてその家臣の筆頭に松蔵右近重信がいた。

                      名張城城主 
1585年、嫡男、松蔵重政が伊賀名張にて地行8,000石を拝領したが重政は翌年、筒井家を出奔している。
よって、残った松蔵右近重信が改めて8,000石と伊賀名張の地を拝領したのである。
名張城の縄張りを決め築城して名張を治めた。
この名張城は後に藤堂家が拝領し藤堂高吉の名張陣屋として現代も一部残っている。
陣屋とは幕府に城と認められていない名称で名張陣屋は紛れもなく松蔵右近大夫重信が築城した城である。
これは現在の名張市民が城であると胸を張って良い建造物である。
   伊賀国に定次の支えとしてついて来た松蔵右近大夫重信は松蔵家が受難となるも一心に筒井家に仕え、伊賀国復興に人生を費やし伊賀国にへ来てたった8年であるが1593年にその生涯を閉じた。
どんな顔をしていたであろう……
受難ながらも笑顔であって欲しいと願う。

そんな松蔵右近大夫重信が現代に伊賀に復活しまして松蔵右近が愛してやまない伊賀の街並みを抜けて共にお城に行きませんか?
お城では私、松蔵右近重信が甲冑を着てくれた貴方様に家臣として貴方様がヒーローになる為のサポートだったり写真撮影をしたりしておもてなしいたしますよ^ ^

そんな伊賀の赤鬼👹 松蔵右近が貴方の家臣として共に行く武者行列が体験できる店はココ!

          


                           アクセス
三重県伊賀市上野丸之内28 ラフォーレビル2階
伊賀の鎧屋NOTORIOUS
℡090-7824-9617
担当 中村宙史

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