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天下の梟雄 松永久秀

   東大寺の大仏焼き、将軍暗殺、主君、主家殺し謀叛の達人? 悪党といえばこの人しか思いつかないという人物といえば歴史好きな方の代名詞になるのは、大体、大和国の松永久秀になると思う。

                  室町時代とは

   しかし、実際には東大寺の大仏を焼いたのも将軍暗殺も主家、主君殺しも松永久秀はどれもしておらずましてや織田信長とは同盟を結んでいただけで信長の家臣だったなんて事は一度も無く戦国時代のような常に気の休まる場の無い時代であればあるほど同盟なんていつ、裏切っても裏切られても反故にしてもいいような無法時代の常識が現代の規制や規則に従順で人の道徳というものは……と言った価値観がまるで真逆というのが戦国時代の常識なのである。
こんな世の中を作ったのが室町幕府であり足利将軍家で公方=将軍ですが室町時代は時代違いも含めて8人将軍がおり、別に地方を治める管領や探題などが設けられ正当な将軍が本拠地から暫く消えるなんてことや室町幕府があるのに他の幕府が幾つか作られた時があったりして鎌倉時代にはある程度の恩賞があったのが室町幕府の場合は全て最初に恩賞を渡したので既に渡すものが無いと言った、、室町幕府とはいわば
戦を回避する為の暫定政府だった。
そんなん誰も従わないし従う理由も無くなってしまう。
ですから室町時代中期に起きた応仁の乱からが戦国時代の始まりと言われていますが実際には応仁の乱は今までの武士達の鬱憤が単に爆発したキッカケで室町幕府成立からが戦国時代が始まったと私は推察している。

            
               右筆 松永久秀の仕官

   さぁ、それではそんな時代の松永久秀の時代に戻ろう。
松永久秀はそもそもは摂津国高槻の生まれで
最初は三好元長の右筆として三好家に仕官しかたのが最初だった。
右筆とは文章の代筆、文章の作成が仕事ですが
単に戦の記録係と言っても誰誰が誰誰に勝ったとか負けたとかを記録するようなそんな
単純な仕事ではない。
右筆の仕事は今でいう秘書官や事務次官に相当する仕事で公文書の作成や戦時に必要な文書の作成、軍略や政略に直に携わる仕事それが右筆という仕事なのである。

   三好元長とは北畠具教の文章でも触れましたが正当な将軍家の管領、細川高国を討伐して正当な将軍を近江国に追放して正当な将軍の弟に新たな幕府、堺幕府の将軍にして自身は管領の代わりに海船政所で天下の指揮をとっていたが
主君で新たに堺幕府の管領についた細川晴元に疎まれて追い込まれて自害することになってしまった阿波国出身の権力者だった。
そんな三好家の元で右筆に選ばれた松永久秀には元長の目から見て輝くものがあったから、その片鱗が見えたのであろう。
短い間ながらも松永久秀は後に大和の大名としての戦略や政略を生み出していく原動力になった下積み時代を三好元長の元で育んでいったのである。


                開花!軍師 松永久秀

   堺幕府が出来て暫くして政権を我が物にしていた三好元長を疎ましく感じていた細川晴元が近江国に追放した正当な将軍、足利義晴と手を組み大坂石山本願寺の一向衆を三好元長が檀家を務めていた法華宗の法華門徒にぶつける戦を起こした。
これにより檀家になっていた三好元長は堺、顕本寺に追い詰められ自害するという事態に陥った。
堺幕府は崩壊し元長の妻と嫡男、千熊丸は生き残った家臣数名と共に焼け崩落する海船政所をあとに三好家の拠点、阿波国芝生城に帰国した。
阿波国 芝生城では直ぐに本願寺討伐の軍議が行われた。
本願寺討つべしの怒号が吹き荒れる中で お待ちください、我々にはまだそのような力はございませんと止めた者がいた。
その人物こそ、松永久秀であった。
新たな三好家当主となった千熊丸に発言をゆるされた松永久秀は続けて話す。
本願寺に虚言を漏らして動かした細川晴元こそ真に討つべき相手、しかし、将軍の補佐である管領の位についた時の権力者を前に本願寺との戦で力を失った三好家には晴元を討伐する力も財もない故に今は細川晴元の家臣となって討伐する力を蓄える時であることを進言した。
続けて今、対立している細川晴元の懐に入る策として事前に本願寺の門主 本願寺証如と和睦しておいてから細川晴元に対談を設けて本願寺との和睦交渉の場を設けた事にして晴元の家臣となると。
それでも攻撃して来る者がいればその者らを討伐し、三好勢がまだ衰えていない事を畿内の国人衆に三好勢の武威を示せば良い事を打ち出した。
この発言により後に天下人、三好長慶となる千熊丸から認められ軍師にとりたてられるのであた。


            知略のみで天下人と同等に

   時は流れ、将軍は足利義輝の時代になると力をつけた三好長慶はすでに主君だった細川晴元を管領から下ろし幽閉させていた。
この時期にあっても正当な将軍は京に帰れたり近江国に追放されたりを繰り返さねばならないほど権威も権力も失墜していた。
そんな将軍家に対して松永久秀は自身の領地の書道家であった大饗正虎なる者を使い天皇に対談を仕掛け将軍家を滅亡させる一手を思いつく
大饗正虎とはかつて室町幕府成立以前に南北朝という南朝の後醍醐天皇側と北朝の持明院統側の戦いの中で南朝側の後醍醐天皇の守護として北畠具教の先祖、北畠顕家と足利義輝の先祖、
足利尊氏と鎌倉幕府を討伐した建武元勲の1人であった名将 楠木正成の子孫である。
室町幕府の成立は北朝は南朝を敵とし続けるという事からなのでコレに着目した松永久秀は
北朝の現 天皇である正親町天皇に対して大饗正虎に先祖、楠木正成の罪を赦し楠木姓を名乗ることの許可を貰う事に成功した。
加えて三好長慶を将軍の代わりに武家の頭領として認め改元の儀を天皇と共にすることを決めさせた。
天皇には国の時を司る権利と権力があり国内の物流、作物の売買などは天皇の改元で左右された時代である。
元来は鎌倉時代より将軍が天皇と決める儀式が改元の儀であったがこれを将軍でない者が天皇と行うという事になるとその者が天下を動かす権力者になるのと同等ということになるのである。
これに反発した足利義輝は前改元を使い続け朝廷より反逆者として朝敵とされてしまうのである。
その後、三好長慶と和解したが時、既に遅く
この時点で一旦、室町幕府は崩壊したのである。

これらの大きな功績を持って松永久秀は軍師という立場にありながら朝廷より塗輿の使用の許可と五七の桐紋の使用を許可され天下人となった三好長慶と同等クラスの大和の大大名にのしあがっていくのである。


         松永久秀の主君はずっと1人

これだけ、天皇を利用したり時の将軍を幕府ごと滅亡させた松永久秀は三好長慶を三好家を滅ぼすと、思う者は少なくないだろう。
だが、実際には松永久秀が三好家とその後、体力していく事があってもただ1人を主君として認めて、天下人として押し上げていった事は確かで三好長慶が病死した時に一旦は彼の居城、飯盛山城の一角に埋葬したが数年後に松永久秀はコッソリと墓から棺を出し八尾に真観寺という大寺院を創建しそこに改めて三好長慶を埋葬して密かに祀っていた。
時は織田信長と同盟を組んだ時代になる。
そう、松永久秀は何者でもなかった自身を拾い上げて常に功績を認めてくれた三好元長も軍師に押し上げて一族でないのにずっと傍に置いてくれた三好長慶ら親子が好きで慕っていた。
だから、彼ら親子が亡くなった後も松永自身は三好家の忠臣だったのである。
彼が松永久秀の居城は三好長慶の居城の真南の信貴山城であり、彼が最期の場所に選んだのも
信貴山城、最期の時も主君の傍に居たいという松永久秀の心を写しているようである。


そんな人間らしくもカッコイイ生きた方を歩んだ松永久秀の鎧が着れるのはココ‼️

                    アクセス
三重県伊賀市上野丸之内28 ラフォーレビル2階
伊賀の鎧屋NOTORIOUS
℡090-7824-9617
担当 中村宙史
まずは電話で予約を下さい。

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