JPOPヒロインの苦境

作曲趣味に打ち込んでいる。
5月ごろにきちんとボーカルができる人に歌を入れてもらう。
何度聞いても仮歌の自分の声は聞いていていい気がしない。

曲に初めてちゃんと歌詞を書いた。試行錯誤している。難しい。
が、なんとなくわかってきたこともある。
J-POPなり日本語歌唱曲は、これまでも、そしてこれからも、なんの取り柄のない日常を描き続けなければならないということである。

ドラマチックなことを描くためには、今の私が「つまらない日々」だの「あなたのいない日々」などという、対比するための味気ない日常が必要になる。
それがどんなドラマにも必要なものだから、J-POPにはつまらない日々をあの手この手で表現している。

歌詞を書く才能とは、なんてことのない日常を多様な言葉で描く才能なのだと思った。

すると、日本語歌謡は進んでいるようで、ずっと同じことを繰り返しているような気もする。
以前、亀田誠治がNHKで作曲教室をしていた時、J-POPなり、ポップスというのは繰り返し・反復であると、おどるポンポコリンを取り上げて話していた。

歌詞を考えていると、J-POPの繰り返しは、亀田誠治が言っていたような一曲中の繰り返しではなく、J-POPそのものが「あなたのいない退屈な日々」だったり「あなたと一緒にいる楽しい日々」を繰り返し・反復しているだけではないかと思ってくる。
10代から20代前半の曲を繰り返し聞くのは、もうそれで事足りているからのようにも思う。

そんなことはさておき、昨日、BaseBallBearのELECTRIC SUMMERを繰り返し聞いた。
私がBaseBallBearを好きになったきっかけの曲である。そのアーティストを好きになった曲というのは、やっぱりすごい曲だったんだと再確認した。

歌詞を書くようになって聞き直すと、この曲の異常さに気づく。
この曲は、スネアドラムの連打から一気にサビに入る。しかし、ここまでの盛り上がり要素を織り重ねてサビの最初に入る声は、コーラスの関根嬢の「えれっくつりっくさああまー」なのである。メインボーカル小出氏は、合いの手的に歌うのみである。そこまでガッツリ歌っているのにである。
この曲を作った時、小出氏はどういう気持ちだったのだろう。メジャーデビューしてすぐのシングルにもかかわらずサビの歌い出しがコーラス、当時のランキング番組でワンフレーズしか流れないのにもかかわらずである。しかもしかも、「えれくつりっくさーまー」ではなく「えれくつりっくさあ↑あ↓まー」なのである。この辺りの長音記号をどう歌うかまで含めて歌詞であるが、なんでこんな音階にしているのか。この声の可愛さに心を打ち抜かれた当時の私はしてやられた。しかし、どうしてこんなことが思い浮かぶのか。どうしてそこをそう歌うのか。どう考えても異常である。

なんてことを思うのである。

もう一つ、歌詞を書く上で必要なもの、ヒロインであり王子様である。

かつて落語家が、話芸なら全員にとっての美女をそこに生み出すことができる、と話していた。つまり、「そこに絶世の美女がいました」と話した時、そこにそれぞれが思う美女を当てはめてくれるわけで、人によってはマリリンモンローでもガッキーでもよくなる。これは話芸だからできることだと話していた。
J-POPにもヒロインが登場する。しかもそれは、僕だけの美女のように描きつつ、誰にとっても美女なのである。語りつつ、語り尽くしてはいけないという雲のような存在である。

この存在を生み出せるかどうかが、肝である。

なんだかんだ西野カナは上手いのである。ただの日常を多様に描きながら、それぞれの大切な存在や友情・愛情といったシンボルを傷つけず、むしろ美談にする。それはもう、ドームでコンサートするのである。

一方、ヒロインや王子様を作り上げてきた芸能界が最近崩壊してきたなとおもう。
ジャニーズやハロー!プロジェクトのアイドルには、ある種の美学やシンボルを意図的に作ってきた節がある。それが崩壊した。一旦はカメラ付き携帯とSNSにあったかなとおもう。もう一点は、秋元康のせいだとも思っている。

脱線した。

何が言いたいかというと、これまでJーPOPを支えてきた役者である「男性が理想とする女性」や「女性が理想とする男性」が、今後はもう歌詞の中に出せないのではないかということである。
性の多様性が言われる時代である。

いつのまにやら「自分らしく生きる」という言葉ができた。本来は、皆当然なのである。自分らしく生きるしかないのである。変な言葉である。しかし、JーPOPはこれを取り上げて言葉にした。歌詞の中に、そのような日常を埋め込んだ。そのうち、「女性らしさ」と「自分らしさ」が区別されはじめた。「女性らしさ」や「男性らしさ」を生きるのは間違いであると言い始めた。あたかも社会にはそれを強要する空気があると取り上げられ始めた。なぜかその問題は、性と体の不一致の問題と合流した。1つは世間にそのようなことを認知してもらうためだったのだろう。しかし、その多様性は、公然の事実から飛躍して、幻想の世界を築き始めたような気がしている。

そして、その幻想によって、これまでの映画のヒロインは抹殺され始めるのではないかとおもう。また、かつて、荊棘の森の中にある城から姫を救い出した王子様と、現在のすべてのフェミニズム問題を解決した理想の男性のあいだにどんな違いがあるのだろう。

J-POPの歌詞はむずかしい。


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