ライ麦畑の“ちいかわ”たち

ちいかわを読んでいると、どうしても『ライ麦畑でつかまえて』を思い出してしまう。

ちいかわには、主人公であるちいかわが無垢の象徴のような形で描かれているように思う。そもそも、ちいかわの始まりはナガノ氏の願望をイラスト化したものであり、当初から連想されるイメージは限りなく“赤ちゃんや子ども”に近いものであったことがわかる。子どもというのは、まさに純粋さのひとつの表象であると言えると思う。

https://x.com/ngntrtr/status/918439573050363907s=46&t=bRnvxjZymLRdur1BMC57wA

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また、ライ麦においても無垢の象徴が登場する。主人公ホールデンの年の離れた妹=子どもたちがそうだ。ホールデン青年は社会に反発していて、建前やはったりばかりの大人たちを“インチキ”だと言い、周囲も彼のことを変なやつだという目で見ているけれど、打算なしで自分を好いてくれている歳の離れた妹のことは心から愛しているのだ。

ホールデンは、これからそんな“インチキな”社会で生きていくことにひどく拒否を示していて、せめて「子供たちがライ麦畑の端の崖から転がり落ちそうになるのを捕まえる仕事をしたい」というようなことを言う。
これは、時の流れの中で、不可逆的に(身体が)大人になってしまい、大嫌いでインチキな社会に参画することになっていく(ようにしかならない)という自身の無力さと世の理不尽さを嘆くとともに、彼の無垢さへ憧憬を表す一場面だと思う。

ちいかわの中にも理不尽は登場する。たとえば、ちいかわたちは危険な討伐をしなければ生きていくことができないような、経済的にも安全保障的にも貧しい、ちっともちいさくもかわいくもない世界で暮らしているのだ。
そんな理不尽の中で、ちいさくてかわいい彼らが健気に頑張っているのである。そんな「今にもライ麦畑の縁から転がり落ちてしまいそうな」姿に僕たちは目を離せなくなる。無垢な心で一生懸命に生きている彼らをいつの間にか自分ごとのように思ってしまい、感情移入をしてしまったり、つい我が事のように手に汗握ってハラハラと見守ってしまう。

この読者の心境は、ホールデンのそれとすごく似ているように思う。
毎日朝早く家を出て、労働に出かけ、本意でなくても頭を下げておべっかを言い、インチキな世界にうんざりしながら、生きるために生活している。そんな理不尽の中生きる僕たちにとって、理不尽の只中でも純粋さを忘れずに成長していくちいかわは、忘れかけていた無垢な気持ちを思い出させてくれるのかもしれない。

『ライ麦畑でつかまえて』の原題が“The Catcher in the Rye”、つまり「ライ麦畑の捕まえ役」であるところを訳者が意図的に受動形に訳したという説と同じように、僕たちは画面の向こうのちいかわを心配したり応援したりしながら、その実自分自身を憐んでいると、そう思わずにはいられないのだ。


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