ほとんど使えていなかった
noteを知った時は、
すっごく良いものを見つけた!と思い、
文字を読む習慣が無かった私にしては珍しく
長時間文字を読んでいた。ハマっていた。
普段の休日は高確率で友だちや恋人
誰かしらと会ってはたのしい時間を作っている。
今日は珍しく引きこもり日となり、
作る予定だった豪勢なご飯も作らず、
正直なところソファーから離れられない。
ひたすら寝て少しだけYouTubeを観て、
何かに必死な人っていいなって羨ましく思い、
久々にnoteで検索したものを読んで、
共感したり自分の考えを巡ったり…。
"変えられるのは自分だけ!”
トレーニング動画で耳にした言葉で、
言うまでもなくこれは、
自分の体に見てわかるような変化をつけられるのは自分しかいないからがんばれ
という励ましの意味が込められている。
何気なく聞いた言葉だったけど、
母と話しているうちに
最近の母のテーマ?流行り?に、
"変えられるのは自分と未来だけ!”
という言葉があると知った。
深い意味で発したわけではなく、
日常そう感じている
そして、私にそう感じてもらいたい
と思っているように見えた。
予定を詰め込んで
ハードで充実した日を過ごし続けると
時々休みたくなる。
充実していること、時間を割いて私と会ってくれる人がいること、その人と過ごす時間、したいことがあること、自由に行動できること、
とても有り難くて幸せ。
それなのに、幸せ疲れしては意味がない。
それに気付いてからは
自分のたのしめる限界域があることを認めて、
自分がダラける時間を
たまには作ろうと考えるようになった。
今日はそのつもりが半分そうでないつもりが半分で、
結局ダラける日
それも1年に1回あるかないかくらいの
ダラけ度合いの酷い日になった。してしまった。
このスムーズに出てくる
「してしまった」という感情。
自分のためにめんどくさいけどしなきゃいけないこと、しておいた方がいいことが沢山あるのは自負しているが故。
行動どころか文章もダラけてしまったが、
こんな日にしてしまったのは
最近少々疲れていたからだとわかっている。
昔から体力も含む運動能力だけは褒められていたし
結果として現れていたから良い方とわかっているが、
体を使いすぎてもないのに
疲れてなにもしたくなくなる時がある。
そういうときは、
もちろんメンタルまで疲弊している。
さて、今日はとことんダラける日にしよう。
行動できない時は余裕のある限りで
頭を使おう。勉強ではなく思考で。
自分がやる気をだすために整理して、
原因を取り除いて、
それが難しい時は受け入れて、休める。
時間が必要な時は無理のない範囲で、
動き始める。
そうすれば時間が経つし、
何か復活のきっかけが拾えるかもしれない。