ミニスカートとリュック ー『82年生まれ、キム・ジヨン』

韓国で100万部を超すベストセラーとなった『82年生まれ、キム・ジヨン』。気に入りそうな身近な人には何人か勧めている。
知人からまとまった感想を尋ねられたので準備用のメモ。

序盤は、「これはきつかろうな」と、どこか他人のエピソードを見聞きするような感覚で読み進めていたと思う。「これは私!」みたいな感覚にまではならなかったというか。

私自身は、母が家計を担う、忙しい自営業の家で育ったので、男も女もないというか、父も風呂掃除をしたし、兄も米を研いだし、私も小学生の頃から買い物に行っていたから、各自やれる範囲でやらないとまわらない家庭で育ったせいもあると思う。

なので、「家事は女のやること」的な発想が(発言者としては無意識かもしれないけど)透けて見える発言を聞くと、(出産と授乳以外で、体の性によってできる・できない、得手・不得手のある家事領域ってあるんかな)と思いながら、やんわり抗ってみるようにはしている。めんどくさい人と思われるかもしれないけど。
機会と訓練の問題じゃないのか。女が家事をやればいい、またはやらねばならない環境が発しさせたことばじゃないのかと思いつつ。

とはいえ、昭和一桁生まれの父からは、私からするとクラシックな性別規範らしきものがちらちら見えて(ふだんはけっこう独自な人なのに、だ)、小学生の頃、私の口ごたえに本気でいらついた父に「お前は男に嫌われる」と呪いのようなことばを言われたことも2回くらいはあった。あれはほんとに気分が悪かったな。「女のくせに」的な発言もちょいちょいあった。そんなことがあるたびに、「この発言はすごい嫌な感じだし、おかしい」と感じていた。

こういうちっちゃいできごとを何十年も忘れずにいるので、この作品の、そこらじゅうにトラップみたいに行き渡っている差別をディテールを重ねることであぶりだす描き方はしっくりきた。些細な場面や言動にこそ、大事なこと、核みたいなことが現れると思うから。

作品の後半、仕事、出産、とライフステージが進むにつれ、序盤ほど穏やかな気持ちでは読めなくなってきた。自分や友人の断片的なエピソードとどこか重なる部分が増えてくる。

子供の頃は漠然と「大人になったら結婚して子供を産むのかな」と思い描いていたのに、大人になって、気づいたらいつまで経っても子供が欲しくならない。30歳を過ぎたあたりでそのことにうっすら気づき始めたけど、目を背けていた。
年齢のリミットを考えると産むなら動かねばと頭ではわかっているのだが、出産に対してまったく前向きになれない。「前向きになれない」という心情は、「子供を産まねばならない」という前提があればこそで、今となっては、「結婚したら子供を産む」という規範に無意識のうちにがっちり絡め取られていたのだと思う。

夫の親の「孫の顔が見たい」というプレッシャー、もっと直接的に言えば「子供はいつ産むの」というプレッシャーがきつかった。「孫が欲しい」だけじゃなく、自分達が子育てをして、大変でも幸せだったから「子育ては素晴らしいものだよ」という思いもあったと思う。
その気持ち自体には良いも悪いもないのだけど、それと同じくらいに、私の「子供は欲しくない」という気持ちもまた良し悪しではなく、私がどう暮らしたいか、というだけのことだ。

当時は、世の中の「ふつう」と違う(と思っていた)選択をすることや、身近な人の期待に反する選択をすることに腰が引けていた。怖かった、といった方がいいか。(ふだんは「ふつう」というものを規定すること自体に否定的なくせに、だ)

そうこうするうちに時間は経ち、夫の親に対しては、あんまりだと思う時には夫から話してもらい、そのうち夫の弟夫婦に子供が産まれ、私達が40歳近くなってくると何も言われなくなった。
子供を産まなかったことについては、いまだにどこか引っかかっている。この引っかかりってなんなんだろう。「正解だったのかな」みたいな貧乏くさい感性なんじゃないかな、とも思う。

作品を自力で読んで、自分に引き寄せて考えたのはこのあたりことまで。
描かれている「差別」以外のなにものでもないあれやこれやには苛立ちを覚えたし、こういう目に遭っている女性たちがものすごく大勢いて、その多くは声をあげられなかったり、そのおかしさに気づかないでいるであろうことに暗澹たる気分になった。

わざわざ「自力で読んで」などと書いたのは後日談があるからで、TBSラジオの「Session-22」で韓国文学の特集を聞いてのこと。
https://preview.app.goo.gl/nhsw9.app.goo.gl/ruXU

番組を聞いていて、高校時代に痴漢被害に遭ったときのことを思い起こした。
始業時間が早く、その日も朝7時過ぎに地元の空き地のバス停で1人で待っていた。ミニスカートの制服姿で、体の前に持ってきたリュックを片足のももに乗せてリュックの中を探していたら、走ってきた若めの男性が、通り過ぎざまに私のスカートの中に手を入れて去っていった。あまりに突然のことで驚きすぎて、「わ〝っっっ」みたいな自分でも驚くほどの大声が出てしまい、朝の静かな道に自分の声が響いた。駆け抜けて行く男性の後ろ姿を呆然と見つめるほかなかった。

このことについては、たぶん親にも話してないし、「刃物とか持った人じゃなくてよかった」くらいに思って済ませていた。

ラジオの番組の中で、韓国では地方の女子高生が都心に進学しようとすると「なんで女の子なのに」って言われるとか、進学塾で遅くなると「気をつけて」って言われるのは女子だ(人を傷つけないように気をつけるべきは加害者なのに)、という話を聞いていて、突然気がついた。
あの痴漢に遭ったことについて、私は39歳の今になるまで「短いスカートを履いて、股を開いて荷物をガサガサやってたからだ」って思っていた。「相手が悪い」と思いつつ、自分にも一部非があると思っていた。
これって、性被害に遭った人に「あなたにも悪いところがあった」っていう人と同じことじゃないか。
20年以上経って、そのことに突然気づいて愕然とした。ふだん、頭ではわかってるつもりのことでも、ほんとにはわかってなかったんだということがわかった。

この本、女の人に読んで欲しいけど、男の人にも読んで欲しいなあ。どんな風に感じるのか、聞いてみたい。

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