20170108 命のバトンはみあたらない

朝食は、おとといの味噌汁の残り、冷蔵庫の残りの煮豚、キムチ、もやしのごま和え、ほうれん草のごま和え、正月の煮物、黒豆。煮豚はなくなってしまった。
元旦以来さぼっていたぬか床をかきまぜる。かぶからでた水がたまっていた。
食後、チャイを作って飲む。コクが足りないけどまずまず。

昼食を食べに外出。夫がラクサを食べたいというのでシンガポール料理屋に入る。チャーハンと麺のセットにした。
帰りに新しいケーキ屋に立ち寄るが、一つ一つが小さく、今日の気分ではないので買わずに帰る。コンビニで、夫はカップデザート、私はドーナツを買って帰る。

帰宅して、コーヒーを淹れておやつにする。
年末年始に録画してあったテレビ番組を次々に見て、寝落ち。「笑ってはいけない」の西岡徳馬が見事だった。あと斎藤工。

夕飯は、冷凍してあったウインナー、正月にもらってきた白菜、昨日実家でもらってきたハムで鍋にする。わずかに残っていたもやしのごま和えも投入。みそと牛乳仕立てにして、最後にバターを落とした。もう少しこしょうをきかせてもよかった。残ったスープは明日の朝、ショートパスタを入れて食べることにする。

食後、久しぶりに編み物をしながら、テレビの続き。
この秋・冬は編み物をしている。最初につくった腹巻きで初めて模様編みをしてみて、とてもよくできたのだが、作り目が少しきつかった。履くときに不便なので、もっとゆるめで柄なしのものを編むことにした。メリヤス編みはどんどん進む。

作家・東田直樹のドキュメンタリー番組を初めの方だけ見る。前作のイメージで見始めたら、番組ディレクターのがんの話から始まったので驚いた。1年におよぶ治療の後に仕事に復帰したというディレクターと東田の短い対話の場面に、編み物の手を止めた。

死を前にして生きていく上での価値観は変わったかと問われたディレクターが「やっぱり変わった」「今の生活や、家族とか身の回りのものがいかに大切かと感じるようになった」と答えると、東田は「僕は人の価値観はそんなに簡単に変わらない (価値観は)積み重ねの人格のようなものだから」と答えていた。
また、ディレクターが「もしかしたら自分が親やおばあちゃんよりも先に死ぬかもしれないと思うと、普通は命ってつないでいかなきゃいけないのに、もしかしたらつなげないのかと思って・・・」と話すと、いくつかのことばのやりとりの後、東田は「僕は人の一生はつなげるものではなく、一人ずつが完結するものだと思っています」と語った。
さらに、対話の翌日、東田が「僕は命というものは大切だからこそ、つなぐものではなく完結するものだと考えている」「命がつなぐものであるなら、つなげなくなった人はどうなるのだろう」「バトンを握りしめて泣いているのか、途方にくれているのか、それを思うだけで僕は悲しい気持ちになる」「人生を生き切る、残された人はその姿を見て自分の人生を生き続ける」という文章を送ったそうだ。

私もがんを経験したけれど、あまり価値観が変わったと感じなかった。むしろ、価値観も含め、それまでの傾向が強まったように感じている。
「大病を経験すると価値観や死生観が変わる」というようなことをよく聞くのに、自分の身にはそういうことが起きなくて、物事をきちんと受け止める力がないのかな、となんだか恥ずかしいような気がどこかでしていたのだった。病期が早く、治療が楽で、苦労しなかったからかなとも思った。

「命を次につながないと」という感覚はしっくりきたことがない。「全体があって(全体のために、ともいえるかもしれない)個がある」という発想とどこかでつながっているような気がして、苦手だ。(「人類」という種で考えたら私のような考え方は勝手なのかもしれない。でもいろんなタイプがいた方が種としては強くなるらしいからいいだろうとも思う。)
命やその誕生はかけがえのないものだと思う。私なりに。けれど、命を「つながないといけない」とするのは別の問題のような気がする。こどもを産み育てるかどうかは、それぞれの人が決めればいいことだと思うから。そもそも産み育てたいと思ってもそのとおりにできない人もいるだろうとも思う。

そんなことを思い起こさせられた対話だった。
「一人ずつが完結する」という表現がしっくりくる。

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