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沈黙は金、雄弁は銀。

3人以上でいると、話せなくなることが少なくない。

1対1でいるときは特に問題もなく普通に話せているのに、そこに1人新たに入ってくると、2人の話を聞くばかりになってしまって、自分から発言しなくなってしまうのだ。昔からそういった傾向があり、大人数で喋る場が苦手だ。というか、年々どんどんと苦手になっていっているような気がする。これはとてもよろしくないことのように思う。

どうしてこうなってしまうのだろう。
多人数でいるときの自分の気持ちを思い出してみると、億劫だ、という思いが心を占めている気がする。「言って大丈夫だろうか」「変に思われないだろうか」「どうせ自分が言ってもな・・・」「言わないほうが良いだろう」。そんな気持ちがぐるぐると回っている。自分のことながら、あんまり健全な精神状態ではないように思われる。

「沈黙は金(きん)」という言葉がある。

沈黙は金とは、沈黙することには金にも喩えられるほどの価値がある、という意味で用いられる語のことである。読み方は「ちんもくはきん」。英語では silence is golden と表現する。沈黙は金の類語には、「言わぬが花」「口は災いの元」などが挙げられる。
Weblio辞書「沈黙は金」より

誰かと話していると、ふとこの言葉が頭に浮かぶことがある。
特に前職で多くのスタッフをマネジメントしていたときには、よく思い起こされた。個性も性格も生き方もバラバラなスタッフたちを指導していくとき、何を言えば正解かよく言葉に詰まることがあったのだ。そんなとき「まあ、沈黙は金だしな・・・」と自分を正当化するかのように、この言葉を使っていた覚えがある。

その時期からの悪癖が、わたしに残っているのかもしれない。

以前カウンセリングを受けたことがあるのだけれど、そのときの先生は、「自分の気持ちはちゃんと吐き出さなければいけませんよ」と言っていた。その言葉から自分を見ると、常に自分の気持ちを飲み込み続けている私は、あまり良くないのかもしれない。さらに付け加えると、楽しく会話しようとしているのに、黙りこくってしまって会話ができていない相手に対しても、良くないことのように思える。性格だ、性質だ、と開き直ってしまうことは簡単だけれど、直せるものなら直したい、というのが、この私の悪癖に対する正直なところ。

ところで、「沈黙は金」に対して、こういう言葉もある「雄弁は銀(ぎん)」。

沈黙は金の言葉は、しばしば「雄弁は銀」との対で用いられる。一般的には、下手な弁論や弁解よりは黙している方がましである、という意味合いで用いられる。

「沈黙は金・雄弁は銀」は西欧文化圏から導入された格言とされる。英語にも「Speech is silver, silence is golden」という格言がある。
Weblio辞書「沈黙は金」より

わたしはまさに上記のような意味合いでこの言葉を使っていた。
しかし、Weblio辞書の「沈黙は金」のページにはこの続きがあった。

この「沈黙は金・雄弁は銀」という表現が成立した当初は、金よりも銀の方が価値が高かった、つまり、元々は、沈黙よりもむしろ雄弁を称えた格言であったという説がある。この見方に則ると、昨今では金の価値が銀に勝り、格言の意味はもっぱら沈黙を称える意味となった、ということになる。
Weblio辞書「沈黙は金」より

つまり、「沈黙」よりも「雄弁」が良いとされている言葉だったというのだ。

それが本当だとすれば、私は全く逆の意味で言葉を使っていたということになる。これを知ったとき、わたしはポカンとした。いままでの自分はなんだったのか、と。でも、いままで言葉で自分を縛ってきた私には、これは良いことのように思える。なにせ、自分を縛っていた言葉と、まったく逆の言葉を手に入れることができたから。

これからは億劫がらずにちゃんと気持ちを言わなきゃいけないなあ、なんてことをぼんやりと思う今日このごろである。

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