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手で見ることを考える

河北新報夕刊「まちかどエッセー」に2021年7月から隔週で8回にわたり書いたもの。「河北新報オンライン」が会員制になったというのでここに再録する。

第1回と第2回は自己紹介を兼ねたものということで、現在もうひとつの肩書きである大学教員としての話とした。
(初出:河北新報夕刊「まちかどエッセー」2021年7月26日)


私は大学で講義を一つ持っている。映像文化の理論や批評に関するものだ。古今東西の映画など映像作品を見せながら、それらについて解説していくのが毎回の基本的なスタイルだが、講義期間中に簡単な作品制作も課すことにしている。たとえば「会話している場面を表した1分間の映画を撮ってください。ただし、新型コロナ対応のこともあるので、本当に会話してはいけません」というものである。学生たちには、試行錯誤はしてほしいけれど必ずしも上手である必要はないと事前に伝える。なぜなら、この課題は作家を養成する芸術学校のそれとは違うから、と。

今日の私たちは映像に囲まれた生活をしていると言える。映画を見るために映画館に自ら赴くのはもはや儀式的な行為とすら言えるもので、自宅で配信を見るほうが多いだろう。それどころか、だまっていても映像のほうから私たちに迫ってくる。街を歩いていれば無数のモニターからCMが流れ、わずかな待ち時間にはスマートフォンで動画を見たり、時には撮影してSNSに公開したりすることもめずらしくはない。しかし、それらの映像がどのようにつくられているのか、語彙も文法も学ぶことは極めて少ない。私たちを取り囲む映像から一歩身を引いてそれについて考えてみるひとつの方法は、簡単なものでも自分でつくってみることであるというのが、この課題を出す真意なのである。

毎回、学生たちは個性的な作品をつくってくる。スマートフォンで撮影から編集までできる時代なので、意外なほど軽々と課題をこなすようだが、やはり普段見ているもののようにはいかないことに気がついてくれる。一見するとごく簡単な場面でも、そこにはさまざまな工夫が凝らされていることを知るのだ。講義で私がくどくど話すよりもよほど理解が深まる。

映画史上もっとも重要な作家の一人であるジャン=リュック・ゴダールは、かつて、目を失うか手を失うか選択せよと言われたら自分は前者を選ぶと語ったことがある。映画づくりにおいては、見えないことよりも手が使えないこと(フィルムを切り貼りして編集すること)のほうが困るからだそうだ。見ることばかりに勤しんでいる私たちも、時には手を使って映像に触れてみてはどうだろう。


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