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笑わせずにはいられなかったあの頃のように

自分にできることなんて何もない。
何もないから何かできる。
ピンときた「何か」をやる。
違うと思ったらやらない。
やれそうなら続ける。
そうやって生きてる。

すぐ飽きてやめてしまうことを悪として、
そんな自分をダメと決めつけてきた。
でも興味あることをぜんぶやってみようとする試みは、
そんなに悪いことではないのではと思い始めた。

幼少期に過ごした台湾のインターナショナル幼稚園の影響か、
私には人と人との境界がない。
日本で物心つく頃に最初に感じたのは、
「どうしてそんなにみんなルールに縛られるの?グループ同士でいることにこだわるの?クラスの友達じゃなきゃ仲良くしちゃいけないの?年齢がちがうとお友達じゃないの?先生だってひとりの人間じゃないの?」

そんなところ。
(知らない大人、中学生以上と遊んでしまうのは今思えば危険な子供だったかも?)

まじめな人ほど、私のような存在にむっとする。
ないがしろにされている気がする、ルールをちゃんと守ってよ、こないだはこう言っていたけど今はちがうの?

えぇ、だって今を生きているんだもの。

どんな人でもどんなジャンルでも「へぇいいね」って受け入れることができる。だからこそ興味の対象が広すぎる。

大きくなるにつれて、自分はおかしいんだって言い聞かせ、まわりに溶け込んだ。まわりに合わせていたら変な目で見られない。

一見、普通っぽい人だからやんちゃでお騒がせな人は私を一旦は無視するけれど、話すとおもしろいと言ってもらえて仲良くなれた。

一方で、クラスの隅っこでなるべく目立たないように過ごしている人たちとも仲良くなれた。やっちといると落ち着くって言ってもらえた。どんな人とも楽しそうに話せていることが羨ましいしすごいと言われた。僕としては言っている意味がわからなかった。

怒っている人がいたら、とにかく笑わせることを考えた。
よく女子を泣かせた。
いわゆるいじめっこに分類されるものだと思う。
相手は本気で怒っているのに、笑わせてどうでもよくさせた。
とはいえけじめとして謝った。
そうじゃないと先生が許さなかった。

笑えば何もかもどうでもよくなる。
そのことを本質的に理解していたので、とにかく笑っていればいいのだと小学生にして結論づけた。

小学校高学年でおもしろい人No.1に選ばれた。
高校の顧問の先生からは「お前は芸人になれ」と言われた。
昨年から通っている東洋医学の講座の先生からは、「芸が洗練されているよね。ほんとおもしろい」と言ってもらえた。

時折、あのころを思い出す。
自分には境界がなく、人を笑わせることばかり考えていた。
とはいえ芸人とは何か違う気がした。

ふと思ったのは、
笑っているときの空気感が好きなのだということ。
笑うと何がおきるかというと、ストレスが吹き飛ぶのだ。

それはいわば、身体がゆるんでいるということであり、
いま学んでいることはまったく無関係ではなかった。

笑っているときの、身体の状態だけそれに近づけるにはどうしたらいいのかを実践している気がしている。
もちろん笑えるならそれに越したことはない。

なかなか探求しがいのある境地にたどり着いたものだ。
これだから人生はおもしろい。


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