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合理的に生きるということについて

昨今、テクノロジーの進化は人間の思考が追いつけないぐらいに早い。

それと同時に、働き方改革の施行の影響もあってか、科学的に仕事を進めていこうとする動きがあちこちで起きている。

科学的にというのは、水素と酸素が結合して水になるといったように、「これをやればこれが生み出される」という限りなく方程式に近い仮説を作り出していくということだ。

何かのサービスに登録するユーザーは、どういう人で、何がほしくて、どのキーワードに刺さって、どれくらい考えて、課金するようになったのか。

動画配信サービスを見ていればわかるように、登録ユーザーが喜ぶサービスを作っていこうと考え、じわじわと広がっていく様子はあらゆる場面で見受けられる。

爆発的に広がっていくサービスというのは、最初から広がることがわかっていてやっているように見える。

それらは、感性や感情を押し殺して、必要なタイミングで必要なことをやってきた成果なのであろう。

さて、現在は仕事ができる人とそうでない人の差が激しくなっている。

仕事ができる人は、話に無駄がないし、よく気づくし、行動が早い。

それに対して仕事ができない人は、話に無駄が多く、気配りができず、行動が遅い。

ただし、必ずしも仕事ができる人のほうがよいかというとそうでもない。

話に無駄がないことで、思いもよらない話の広がりを見せることは少ない。

よく気づいて先回りしてしまうので、まわりは甘えてしまう。

行動が早いので、自分にもまわりにも考えるヒマを与えない。

それらが機能する仕事もあるということだ。

合理的に動かないことで、機能することもある。

もしかすると、小説家を目指す人は、合理的に本を読んだり文章を学んでいる人だけではないのではないだろうか。

起業家でも、すべて合理的に動くことでサービスを動かしているとは思えない節がある。どう考えても脈がなさそうな飲み会に行ったり、地方や海外に視察に行ったりする。

会話をしていると、合理的でないと気がすまない人がいる。

なんの目的で話していて、どうなることでお互いにハッピーで、どれぐらいの時間その話をするのが適切かを考える。

目の前の相手に集中せず、話の展開のことばかり考えているので、目の前の人と話しているようで話していない。

用意された言葉を羅列させ、一見すばらしく思えるような会話の弾みがあり、なんとなく、いい時間を過ごしたように思えるのである。

もはや、仕事の進め方でついたクセを、見ず知らずの人と話すときにも同じように進めてしまうようだ。

相手が日頃、よく勉強していない人であれば、正しく合理的に話す人に対して、「すごい人と話してしまった」と感動するのであろう。

ただ、同等かそれ以上の人と話す場合、つまらないと感じられてしまうかもしれない。

大抵の場合、合理的にコトを済まそうとしていないし、純粋に会話を楽しもうとするのが世の人たちなのである。

また、仕事に繋がることだけを考えながら話す人は、合理的以前に、話していて自分のことしか考えていないことが伝わるのでわかりやすい。

人との会話は、必ずしも打算的でなくていいし、目的がなくていいと思っている。

これからの生活において、すべてを自分にとって得するかどうかで判断するのは危険かもしれない。

合理的であるということは、今の自分が考えられるあらゆる可能性をデータとして、合理か非合理を決めるということである。

それが決められるタイミングというのは、かなり卓越し成熟した段階か、もしかするとかなり年をとってからになるのではないだろうか。

前提として、自分が見ている世界など、とても小さいのである。

ミニマムをさらにミニマムにして生きるよりは、最初はたくさんの世界を見た上で削っていくことのほうが、それこそ合理的と思える。

生きている世界が狭い人が、他の世界を「そういうもの」と思い込んで、偏見を持ちながら自分の得するものばかりを追い求めるのは、少しズレているような気がする。

合理的に生きるということを、大局観を持って見直してみてはどうだろうか。







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