友人と私の巡礼の旅
(「第2話いちばんに苦しんだ君よ」を補完する文章のようなものです)
彼との友情が始まったのは、大学3年生の冬、時々かかってくるようになった彼の愚痴の電話からだった。
それまでほとんどしゃべったことがなかった我々は、お互いが共に読書家であること、共に佐藤優が好きであることなどから、少しずつ距離を近づけていった。
彼は当時、焦っていた。大学3年の冬、就活戦線に飛び込んでいく勇敢さに満ちあふれていた。一方の自分は「税理士試験でどこかにピリオドを打つ覚悟ができるまで試験に集中したい」とか抜かして一抜けしていた。甘やかされて育った恥ずかしい生き物だった。
彼の勇敢さがなりを潜め、挙動不審さに変わっていったのは彼の就活戦線での戦績の問題だった。彼は様々な企業にESを送ったが、面接までたどり着かない。もちろんそのときあまり好景気ではなかったことも関係しているだろう。我々共通の友人は安易に慰めてみたが、彼は自分のことを疑い始めていた。一番彼が絶望したのは、遠い県の公務員試験を連続して落ちた時だったように思う。筆記試験は満足いく結果になるのだ。いつも落とされるのは決まって面接だった。彼は我々が制止するのも聞かずにどこかの病院にかかった。発達障害との付き合いが始まったのはそのときだった。
彼は発達障害という診断名が付与されたことをいたく喜んだ。戦うべき相手がやっとリングに上がってきたプロレスラーのようだった。悪いのは就職対策じゃない。企業研究とか、自己分析とか、ESの書き方じゃなかった。
しかし発達障害との戦いの旗色は悪かった。彼は特効薬のようなものが存在して、一気に事態が解決することを夢見ていた。しかし、そんなものが存在しないことは知っている人にとっては当たり前のことだろう。発達障害を「直す」薬物など、ない。脳内を税理士試験対策講座で詰め込めるだけ詰め込んで狂っていた自分にもそれはわかっていた。私の兄は知的障害だった。自然と、特殊学級に足が向く小中学生時代だった。発達系の友人も何人かいた。だから自分は今まさに診断書を受け取ったばかりの彼よりも彼に詳しい自負があった。就職に発達障害は全く向かない。これは絶対的真実だった。
彼は少しずつ確実に消耗していた。彼は裏日本と呼ばれる地域から来ていた。生活費を奨学金他でまかなっていた彼にとっては、時間がなかった。実家住みで父親にも母親にも甘やかされて育った自分とは違った。TOKYOにいるためには定職を見つけなければならなかった。しかし大学4年の1年間は、体感的にはゆっくりと、しかし駆け足で過ぎていった。私は税理士試験通信講座のテキストとにらめっこをしていた。
とうとう我々は大学というゆりかごから放り出され、社会という荒波に海水でもみ洗いされボコボコにされる時が来た。まだ内定はなかった。彼の生活費がつきるのは時間の問題だった。新卒カードを共にフィールドから除外してターンエンドしていた我々は、社会的にいえば穀潰しだった。
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