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ジャニー喜多川氏の性的暴行について思うこと。

引き続き 眠い日が続いている。
なんだかやる氣がしないのに 脳だけ過活動しているような氣もする。

さっきまでジャニー喜多川氏による所属タレントへの性的虐待(暴行)について 思うことを書こうとして途中まで書いていたのだが 下書きをいったん破棄することにした。

だが考えても内容がまとまらないので まとまらないまま書いていこうと思う。

まず BBCのドキュメンタリー『J-POPの捕食者:秘められたスキャンダル(邦題)』を観た感想から書こうと思う。

ドキュメンタリーではモビーン・アザー氏というジャーナリストが ジャニー喜多川氏による少年たちへの性的虐待について 過去 ジャニーズJr.に所属していた人物たちへ取材していく様が写し出されていく。

その中で印象的だったのは 先立って見ていた被害者の会の代表をしている人物がインタビューに答えているシーンだった。

彼は自分自身は被害者ではないと言う。だからジャニーさんへの愛情もあるし 自分では大したことはないと言う。

率直に言って ジャニーズ事務所の謝罪会見の際も この代表はずいぶんと安易に事務所側の謝罪を受け入れているな と感じたことを思い出した。

そんな甘い人物が代表を務めていていいのか と感じたのが正直な第一印象だった。

だがドキュメンタリーを観ていて モビーン氏が彼に対して腹を立てるのは簡単だが それでは意味がないと言うシーンが出てきた。

モビーン氏は 彼も自分自身の体験を受け入れ 消化している最中であり ジャニーさんとのあいだで起きたことを理解出来ていないのだと言う。

わたしは当初 被害者であるはずの彼自身が自分のことを被害者という認識を持っていないことに苛立ちを覚え そのことに対してそんなことを思う自分にも腹を立てていた。

だがモビーン氏がこのことについて話をしてくれたことで 自分の中に感じていた違和感が明確になった。

このことはジャニーズファンの人たちにも起きている現象だと感じる。一部のファンたちが訴えを起こした人たちに対し 怒りを向けているらしいけれど ファンの人たちも同時に今回の体験について傷ついているのだと感じる。

この意見はファンの人たちによる被害者たちへの誹謗中傷を容認する。と言う意味では決してないが 構図としては似たものを感じる。

ジャニー喜多川氏から性的暴行を受けた人の多くも喜多川氏を擁護する人たちが多く見受けられた。それもある意味で当然だ。まだ中学生やそれ以下の年齢で自分自身の性に対する認識を確立する前に性的な暴行被害にあったのだから。

そして そのことについて向き合うという長い過程の 入り口にも立てていない人がほとんどなのだろうと思う。

わたしが現在憂うのは 被害者(ファン)が被害者(性的暴行を受けた人たち)を責めると言う構図になっているということだ。

どちらも心理的なカウンセリングが必要だと感じるし それ相応の時間も必要だと思う。

ファンは黙認していた加害者という声もあるが それはどうだろうか?わたしには今のところファンの人たちも被害者であると言う立場だ。

繰り返しになるが 心情として 被害者の人たちを攻撃する氣もちになるのは理解出来るが それを容認している訳ではない。

話は代わり 今回のドキュメンタリーで始めて知ったことに『グルーミング』と言う用語がある。

これは性的暴行を加える加害者が被害者を心理的に支配するために 被害者に対して罪悪感を抱かせると言う行為だ。

具体的には加害者側が被害者に対して スキンシップを施し「こんな風に反応するのは君も氣もちがいいからだろう」と誘導する。

もちろん肉体的な快楽と精神的な快楽は別の側面もあるので 嫌な相手であろうと肉体的には快楽を感じると言う面もある。

そうした心理的な作用を逆手に取り 相手を心理的に支配していくのがグルーミングと呼ばれるものらしい。

このことで思い出したのが 高校生の頃 バレー部の顧問が女子バレー部員に肩を揉ませていた光景だった。これを多くの女子部員が当たり前のように行っていた。

その光景を見て わたしと仲の善い男友だちはなんだアレ?と悪態をついていたが あれもグルーミングの一種だったのだろう。

とてつもない違和感を感じていたが あれも教師と生徒と言う一線を越えた行為であることが今はわかる。本来であれば生徒から提案があったとしても 先生は身体に触れる行為は断られねばならないのは勿論 そもそもそう言った関係の場ではない。

生徒と先生は本来 その立場が違うだけで 対等な存在であるはずだからだ。日本では雇用主と従業員。親と子ども。パートナーとのパートナーシップも本来は対等なはずが 相手を自分の所有物として扱う側面があると感じる。 

これらのことは特に閉じた関係で起こりやすいように思う。そして注意したいのは 自分自身にも相手を所有物として見ている側面があると感じるし 特定の状況になると それが生まれやすいと思う。

このことについてもまたどこかのタイミングで書きたいと思う。

そして報告書を読んだ感想だが 1950年代からすでにジャニー喜多川氏による性的暴行の報告があることに驚いた。

しかも初代ジャニーズが誕生した際にすでに被害を訴えている人物がいたと言うことが報告書に書かれていた。1960年ごろ野球チームを作るなどして少年と交流をはかり 1962年にそこから親交のあった中学生四人を選んで作ったのが初代ジャニーズであり 池袋にあった芸能学校『新芸能学院』の一部を借りて特別クラスを開講し 学院内に『ジャニーズ事務所』を開業したのだと言う。

この新芸能学院は名和太郎氏という方が代表を務めており その方が新芸能学院に所属していた少年から性的被害の相談を受けたのが1963年とある。

その件があってすぐ名和氏とジャニー氏 メリー氏は決裂し ふたりは新芸能学院を出ることにしたようだった。

報告書の中ではかなり具体的な被害の例が出てくるが 特に氣になったのは27ページの名和夫人の話である。

ジャニー氏は、小さい頃にジャニー氏がやってきたようなことと同じような性加害を受けて育ってきたから、一種の病気なんだ。

外部専門家による再発防止特別チームに関する調査報告書(公表版)27ページ

この引用部分はおそらくメリーさんが名和夫人に話したのではないか?と書かれていた。

わたしが報告書を読んだ際に着目したのは ジャニー氏が少年たちに対し性行為に及ぶ際 暴力を振るのではなく 寝室などにひっそりと忍び込み 行為に及ぶ点だった。

不思議だったのは 彼の行為から免れた人物が複数おり それはジャニー氏に対し ハッキリと断るという意思表示を示した人物だったことだ。そうした人物にはジャニー氏も強制的に行為に及ぶことはなく 何度か断られると諦めるようだった。その際も言い争うことはなく決まってジャニー氏は沈黙したままだったようだ。

この点からジャニー氏が加害者でありながら なにか内面に悲しみを持っている人物だと言うことをわたしは感じる。

(歪んではいるが)愛情をもって近づいたのにそれを断られた子どものような印象を受けた。

だからと言ってジャニー氏のした行為が許されるものではないが わたしの印象としてはジャニー氏もまた性被害者であった可能性が高いと感じる。

今回の件について ジャニー氏をたんなるゲイの小児性愛者だと言う記事をいくつか読んだが それは些か早計であり暴論だと感じる(ゲイであることや幼い子どもしか愛せないことと 同意のない性行為をすることは別問題であり それらと混同することは無用な誤解を生みかねないと考えているからだ)

彼が少年に対して 性的暴行を行ったのは事実だが その遠因として自身も同様の被害にあっていたとすれば 彼も自分自身について歪んだ認識を抱いていたかも知れない。

今後どのような経緯を辿っていくかは分からないが 今回この記事を書いたのは わたしもどこかで当事者だと感じているからだと思う。

前回はコロナワクチンについて調べていた頃 今と同じような心理的動揺を感じ 必死になって自分の心と向き合いながら 心の中に浮かぶやるせなさをカタチにしようとしていたように思う。

今回もまた本来は争う必要のない人たちが争っているように感じる。

被害者が同時に加害者であり 加害者がまた被害者生み出すと言う 負の連鎖が起きていると感じる。

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