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自分のことを名前で呼ぶ族

自分のことを名前で呼ぶ人っているよね?
苗字でも、名前でも良いんだけど、自分のことを僕とか、私とか、一人称では呼ばない人たち。

正直に告白しよう。以前、私はそう言った人たちのことを心の中で莫迦にしていた。

申し訳ない、今は浅はかだったと反省している。

どうしてこんなことを書いているかと言うと、現在の私は自分のことを名前で呼ぶようになったからだ。仕事もしておらず、外に出る機会が少ないので公的な場面では使う機会がないが、プライベートな場面では以前と比べてよく使うようになってきた。(恐らく公的な場面では今後も使わないが)

何故、私が自分のことを名前で呼ぶように変化してきたかと言うと、それはパートナーの影響が大きいと思われる。パートナーが自分のことを名前で呼ぶので、それに影響を受け始めたのだ。

自分のことを名前で呼び始めた頃のことはもう思い出せなくなりつつあるが、このことによるメリットは意外とあるのではないかと感じている。たくさんあるかと思ったが、ぱっと思い浮かぶことが少ないな。。。だが、一つだけある。その一つが有れば、私にとって充分なのだ。

それは自分のことを名前で呼ぶことで、自分のことを客観的に見れると言うことだ。

私の名前は「たかなり」と言うのだが、たかなりは〜と話し始めるとき、自分と自分自身の意見を一体化するのではなく、どこか自分のことを第三者目線で見ている自分がいることに氣づくのだ。

私(人格)と私の意見が結びつかず、「あぁ彼(たかなり)はそう言うふうに考えているんだな、と客観的に見れるようになってきたのだ。

私の場合、自分の意見を否定されると自分自身を否定されていると勘違いすることがよくあった。パートナーと意見が違ったり、反論を受けると個人攻撃されているように思うことがよくあった。はっきり言って勘違いであり、誤解なのだが、私にとってそれは真実だと感じていた。これではコミュニケーションが成り立たないのは、容易く想像がつくと思う。

自分のことを名前で呼ぶことが客観性を意識させているか、正直よく分からないところもあるが、少なくとも以前より意見と人格とを分けることが出来るようになってきた。そのことにより勝手に勘違いすることが少なくなってきたように思う。

自分のことを名前で呼ぶ話を書きたかっただけなのに、メリットとか書き出すとそこはかとなく嘘くさが匂い出すね笑

結論:シンプルに自分のことを名前で呼ぶことも案外悪くないって話だけである。

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