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ドラマ『黒書院の六兵衛』が泣けた ー 物語、欲求及び物語を必要としない人間に関する小論

 原作は、浅田次郎の小説『黒書院の六兵衛』日本経済新聞出版社[2013年]、WOWOWで2018年に放送された『黒書院の六兵衛』全6話を最近初めて見た。

 感動したドラマがあると、ついネット上でレビューを探してしまう。「面白い」という人も、「つまらない」という人もいたが、「面白い」派のほうがどちらかと言うと多いようだった。

 頑なにおにぎりと一汁一菜しか食わない的矢六兵衛が、加倉井に説得されて涙ながらにうなぎを食べる場面。六兵衛がうなぎを食べて腹を壊した時、これまた頑なに薬の服用を拒むが、まだ4歳の亀之助に説諭されて、薬を飲んでかろうじて事なきを得た場面。黒書院に居座った六兵衛が明治天皇に対面して、天皇がただ一言「しかと」と言うのを聞いて、ついに下城する場面。どれも涙なくしては見られなかった。

 第5話で、六兵衛のことを調べるために加倉井と福地が的矢家を訪ねる場面。そこで六兵衛の父清右衛門から、六兵衛が旗本株を買って、妻と子を連れて元の六兵衛と入れ替わった経緯を聴く。福地が驚いて「素性のわからぬ者と一緒に暮らすなど」と言うと、清右衛門はこう切り返す。
「素性を知ることに、何の意味があろう。
家柄だ、血筋だと、こだわり続けるうちに、天下の旗本にふさわしい武士は、一人もいなくなった。それが全てではござらぬか。
武士の時代、最後の時を迎えて我らは、的矢六兵衛という、一閃の光芒を見た。」
力強くこう言い切り、ふっと表情を緩めて、こう話を締める。
「それでいいではござらぬか。」
涙が出る場面ではない。しかしこの清々しさ、爽やかさは、いったい何だろうか。清右衛門を演じた田中泯に、もう畏敬の念を抱くレベルだ。

 はたしてこの間、吉川晃司が演じる六兵衛は、一言も発しない。台詞がないのである。

 正直、あれを「つまらない」という人は、読解力が足りないか、精神年齢が低いかのどちらかであろうと思ったが、少し考えてみることにした。

 およそ物語というのは、今実現できない欲求を、間接的に満たすものだ。現実で満たされない欲求を、物語の世界のなかで登場人物が実現してくれる様子を見て、自分の欲求を解消するのである。物語の登場人物は、視聴者や読者の代わりにやりたいことをやってくれる。
 漫画やドラマの中で、冬にこたつに入っているものぐさな人間が、身近な者に言う定番のセリフがある。「おしっこ行きたいんだが、こたつから出たくないから代わりに行ってきてくれないか。」現実では無理な話だ。しかし物語のなかでは、他人に代わりにおしっこをしてもらうことが可能なのである。自らは安楽な場所にいたまま、自身にとってほとんど生理的な、本源的な欲求を解消してしまうことができる。

 さて、このドラマが表現している欲求とは何か。
 人に何を言われようとも自分の意志を貫く、という欲求である。
 これを理解するのはまったく難しいことではない。ご丁寧なことに、解説的なセリフやナレーションが随所に入っている。たとえば第6話で、天璋院が家達に次のように言っている。
「政の栄枯盛衰や、一家の毀誉褒貶に惑わされて、その良心を見失うてはなりませぬ。まわりに流されず、立派に生き抜くのです」
しかし最も象徴的なのは、慶喜と六兵衛が紙に書いた次の言葉である。
「自反而縮 雖千萬人 吾住矣」
(みずからかえりみてなおくんば せんまんにんといえども われゆかん)

 であれば、このドラマを「つまらない」と思う人間とは、どんな種類の人間か?
 読解力も十分にあり、精神年齢も十分に高いのに、このドラマを「つまらない」と思う人間とは、どんな種類の人間か?

 それは三つ考えられる。
 一つ目は、「人に何を言われようとも自分の意志を貫く」という欲求をまったくもたない人である。そもそも欲求がないのであるから、物語という代替的な手段で解消する必要がない。
 二つ目は、日常生活の中でこのような欲求が完全に満たされている人間である。欲求はあるが、常に実現できるから、たまらないのである。
 三つ目は、このような欲求が自らの中に生じていることに気付いていない人間である。すなわち、心が死んでいる。

 一つ目と二つ目は、物語を必要としない人間である。しかしこのような人間が、本当に世の中にいるだろうか。いるとしたらもう、神仏や天使、菩薩の類ではあるまいか。
 三つ目の人は早めに心療内科でも行ったほうが良いかもしれない。


※トップ画像の出所:hulu
https://www.hulu.jp/rokube

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