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「挽歌」前夜

ある夜、つつましい台所で、女が料理しながら男と会話をしている。
いつもどおりの他愛のない会話だが、それぞれに黒雲が覆っていくような空気を感じていた。
やっぱりそうなのだ。どちらも、否定的な感情をこれ以上ため込む力はなかった。

女よりも音楽と友を譲れない男が、申し訳なさと苦しさで涙を目に溜めている。
自分の恋人を愛してしまった友への怒りより、友を許してしまった女への未練より、その友と作り上げた音楽という存在があまりに大きかった。
音楽があまりに大きすぎた故にこれほど悲劇的な転調が追加されるとは、さすがに予想していなかった。
いや、台本を忘れて暴走する即興の無言劇を、男の涙腺が崩壊するまで止められなかったのだ。

男は本当はわかっていた。仕事と称して自分の夢ばかり追いかけ、疲れた女が背中にもたれようとしていたのも見て見ぬふりだった。
それが引き金だったのか。女が甘えすぎたのか、友が遠慮のないジョーカーだったのか。

女は部屋を飛び出していった。
生板には三つに切られたトマトが転がったままだ。
まるで音楽で結ばれた二人の男とその二人に愛された一人の女の絆を、バラバラにするように。

トマトは旨い。
だが男はトマトを見る度に、どうしても思い出してしまう。
髪を解かずに駆けていく女の背中が、やけに寂しかったことを。

トマトの和名は蕃茄(ばんか)だと言う。
それが転じて、この曲のタイトルは「挽歌」となった。

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