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感情を観察する

しばらく頭がぼーっとした日が続いていて、書くことから遠ざかっていました。
その間に祖母が亡くなり、なんとかお葬式に出席して今日に至ります。
祖母との思い出がなかなか思い出せなくて、頭が動かなくて、
「ああ、私やっぱり変になっているのか」と実感が湧いた気がします。


ゆれて揺れて、地に足をつけて

ここ二週間は調子が悪くて、外出する気にもなれず、引きこもっていたので、
お通夜や葬式も行けるか不安でしたが、いけなかったらいけなかったで
自己嫌悪に陥り、親戚に何か言われるのではと疑心暗鬼になるので
ちゃんとお別れしてきました。

全てが午前中ではなかったこともかなりありがたかったです。
納棺の前に祖母の顔を見ることができて、体に触れることができてよかった。
悲しみよりも来られたことの安堵があった。

送る気持ちがあればなんでも構わないものだけど、
儀式も送る気持ちを整えたり故人のことをじっくり考えたりするには大切な形式だと思う。
棺に写真を入れるとき、「これはあの頃の〜」とか「似てるね」とか盛り上がる。
私が知らないことを聞いて、新しい自分の家の一面に気づく。
悲しい、張り詰めた気持ちにふっと柔らかい気持ちが湧いてくる。
この場にいて、みんなに一緒に納棺できてよかったと思う。
亡くなっても聴覚は最後まで残るという。
祖母は聞いていたのだろうと思う。おしゃべりな祖母だから、口を挟みたかっただろう。

火葬場でのお別れが、一番「お別れ」という感じがする。
遺体を見ることには喪失を、姿がなくなるということには区切りを感じる。
私は孫だからそう感じられるけれど、祖父はどうだっただろうか。
最後、遺骨箱を叩いてた。

祖母は、善人であったが問題もたくさんあって、特に晩年頭を悩ませた。
父が可哀想になる程、憎たらしくて、でも愛もあるから離れられない感じが悩ましかった。
幸せだった頃の思い出と、裏切られた気持ちと、ないまぜになった感情はなんというのだろう。
終わりよければすべてよし、みたいに割り切れない存在だ。

それでも、私は孫だから、おばあちゃんが好きか聞かれたら、
やっぱり「大好き」だと思う。
不思議な人でした。

元気なふりをするのは、二日間すごく疲れた。
でも、ふりをしたおかげで少し取り戻したエネルギーがある気がする。
ありがとうおばあちゃん。

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