親の発する僅かな「否定」に影響を受ける
親のせいにする記事を開き直って書こうと思う。
あえて、だ。
というのも、僕の問題である「母との因縁」を決着つけるためにも、親や家族に「依存している部分」にピリオドをつけるためにも、向き合った方がいいと思うからだ。
親に期待してる僕
結論は上記に実はもう書いた。僕は親に依存しているのである。依存といっても、僕の場合は具体的に書くと「親が思い通りになるように期待している」である。
実に残念なことに、親は僕をコントロールしたがり、「思い通りになるように」と育ててくれたが、僕も親に同じことを抱いているのだ。
「愛されたかった」ことすら認められなかった
僕は小さい頃から親の僅かなメッセージを懸命に汲み取って生きてきた。そうしないと怒鳴られたり否定的なメッセージが飛んでくるからだ。
身を守るために身につけた察知能力は、大人になってから「気が利くね」と言われる能力にもなったが、やはり残念なことに過剰適応なだけでただただ毎日しんどい。
なので、いまでも親のわずかでも否定的なものを感じると、死にたくなるほどの強い「怒り・悲しみのようなもの」を感じる。
不思議なことに、親が一切肯定してくれなかったにも関わらず、自分は諦め切れないのが自分でも謎だと思っている。
いままで期待してもダメだった。でもずっと愛されたい気持ちが無くならない。いや、むしろ何度も否定されることを繰り返されるたびにもっと愛されたくなる。
それを認めるわけにはいかなかったから、憎しみだけを抱いていた。認めたら、いままで黙って我慢してきた自分を否定してしまうことになるからだ。愛される普通の家庭を羨ましいとさえ、思いたくなかった。自分が行ってきた親から受ける仕打ちに耐えていることさえも、認められないのだ。おかしいことを認めたら、おかしい育ちをしてる自分が全否定されるから。
やっと愛されたいことを認めれるようになってきたから、こんな記事を書いている。
認められるようになった理由として、親への期待をやめようと決意できたこと。親に期待してる自分を認められたこと。そしてなにより、もういいんだ、といろんな執着を離せたこと。それから自分はこのままでいい、と現時点の駄目な自分を認められるようになってきたからだと思う。
やっとピリオドをつけれそうなのだ。つまり、親への期待を諦めることが憎しみからの解放でもあると思う。
応援してほしいのに、どうして僅かな否定をしてくるの
ただ、わずかな否定を感じる度に自分は自分を否定してしまう。いくら親に期待しないと思っても、脳の片隅できっとまだ期待しているだろうし、自分がコントロールできない無意識にもまだまだ駆逐できずにウヨウヨしてるだろう。
とくに、自分が頑張りたいことを親が否定的な態度を取るだけで傷つく。
僕は本当は絵で食べていきたい。
でも、親に頑張りたいと話しても
「あんたにできるわけがない」「とても難しいことだ」「現実的ではない」というメッセージがある。
「頑張ってね」
それだけがほしい。
なのに、親が僕のできる、できないまで、まだ干渉してくるのだ。「この子にはできないだろう」と思ったとしても、隠しておいてほしい。親だから現実を見せなきゃとか思わなくていい。
「あなたならできるよ」と、言われればできる気がしてくるだろう。そういう、心の支えがほしかった。背中に安心感が欲しかった。自分ならやれるんだ、と思わせてほしい。
そうすれば、できるできないとかじゃなくて、応援されたからもっと頑張れる、気がしてしまうのだ。
そうやって他人のせいにしてるから絵で食っていけないんですよ
と。ここまでかいてすっきりしたので自分に水をぶっかけ、ビンタしておく。
「そうやってできない理由探して、誰かのせいにしてるから成長ないんですよ」と。
これを本当はかきたかった。これを自分に浴びせたかった。
いつまでも、支えを欲しがる自分の目を覚まさせたくて。だから、これが「ピリオド」。もう、こうやって言い訳を晒して、恥を晒して自分を正当化するな、ばかものよ。
できる、できないを他人に託すな。
心の支えは自分で作るんだ。
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