退廃の美はクソだ
先日、こんな卯月コウのツイートがあった。
これを見た時、衝撃を受けた。
卯月コウは「言語化が上手い」と評価されているが、恐らく彼を推してきた中で一番それを感じたのが、このツイートかもしれない。
ずっと自分の喉元につかえていたものが、スッと胃の中に落ちた感覚だった。
退廃の美、というのは万人に理解されるものじゃない。
もっとも、俺はコウに出会う前から何となくその感覚はあった。それをしっかり思想として形にできたのはコウの影響だけど。
学生時代、他人が怖かった俺は、ずっと自分の殻にこもっていた。友達はいたし、遊びに行ったりもしたけれど、上辺だけの関係しか築けなかった。潜在的ぼっち、とでも言うべきか。辛かった。
でも、だからこそ自分には他人に見えないものが見え、他人には作れないものが作れると思っていた。
コンプレックスを武器に何かを表現できると思っていた。
しかし、現実はそう上手くは行かない。音楽も続かないし、小説も執筆中のファイルがパソコン内に未だ散乱している。
俺には何も作れなかった。
出来上がったのは、どうしようもない人間が一人。自分の中の退廃を作品としてアウトプットするのは、簡単なことではなかった。
……こんな経験があるから、コウの
退廃を本当に力にできるのって結局それすら才能というか変換して情熱にするコントロールの上手い人だけなのではないかという疑問がずっとある。
という言葉には酷く共感した。
でも本質はここじゃない。
俺には何も作れなかった。
だったら潔く諦めて、普通に幸福で健全な生活を目指せば良いのだけれど、そうはいかなかった。
一度退廃の美学を知ってしまった以上諦められないのだ。
「退廃の美学を理解できる」ということに自身のアイデンティティを見出し、そこにずっと縋ってしまっている。
「普通の幸福なんかクソ喰らえ、他人より苦しんだ俺は退廃を作品にして成功しないといけない」という思想に身体が侵されてしまっているのだ。
だからこそ、この
でも本当に落ち込んでる時は退廃の美学を理解できることくらいしか誇れないから穴の中に居心地のよさを感じてしまうんだよね
という言葉には衝撃を受けた。多少の違いはあれど、この感覚を共有できる人間がいるのだと驚いた。
退廃の美っていうのは、そんなに良いもんじゃない。俺は一時期それに救われたが、今は足をすくわれている。
正直なところ、救いっていうより、呪いだ。足元に絡みついてきて、身動きがとれない。
退廃の美っていうものは、本当にクソだと思う。
そんなことを思いながら、ヨルシカ、三秋縋、そして卯月コウを摂取して俺は一人居心地の良い穴の中にこもっている。
夏が近い。
俺の症状が、これ以上悪化しないければよいのだけれど。
(前回の記事あんなにカッコつけたのに世話ないなぁ……)
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