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視聴記録『麒麟がくる』第14回「聖徳寺の会見」2020.4.19放送

道三(本木雅弘)との会見の場に、おびただしい数の鉄砲隊を引き連れて現れる信長(染谷将太)。正直者で先見の明があり、自分の若き日に似ている信長を道三は大いに気に入る。その姿に安堵(あんど)する光秀(長谷川博己)。そんな折、太原雪斎(伊吹吾郎)に率いられた今川軍が、再び尾張に攻め入ってくる。援軍を申し出てきた信長に道三は即座に応えるが、高政(伊藤英明)は、相談もなしに、美濃を危険な立場にさらすこの大事な判断を下した道三に憤りを隠せない。
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/14.html

1.聖徳寺の会見


「富田」と聞くと「市立の方? 私立の方?」(名古屋市立富田高等学校(愛知県名古屋市中川区富田町)か、私立富田高等学校(岐阜県岐阜市野一色)か)と聞き返したくなるが、どちらの学校でも、その所在地でもない。斉藤利政と織田信長が会見した聖徳寺があった尾張国冨田村(現在の愛知県一宮市冨田)のことである。
聖徳寺(しょうとくじ)は、尾張国大浦(大良。現在の岐阜県羽島市)に創建され、その後、尾張国冨田村(現在の愛知県一宮市富田)、清洲などを転々とし寛永年間(1624年~1644年)に名古屋市中区錦三丁目に移り、平成5年(1993年)に現在の名古屋市天白区へ移った寺である。

 『信長公記』「山城道三と信長御参会の事」によると、織田信長は、周囲を屏風で囲んで即席の着替え場として、正装に着替えた。そして、屏風に隠れて盗み見をしていた斎藤利政が出てくると、堀田遣空が近づき、「こちらが斎藤山城守殿であらせられる」と言うと、「であるか」と言って、部屋へ入って座ったという。(「先に座って待つ」のは格下の人間がやることなので、避けた。相手は美濃国守護代・斉藤家を乗っ取った成り上がり者であり、織田家の方が家格が上だということであろう。ドラマでは、織田氏も成り上がり者で斉藤利政と同じだと言っていた。)

 斉藤利政と織田信長の会見の内容は不明です。ただ、斎藤利政は、織田信長はすごい人物(先見の明がある人物。自分と同じ考えを持つ人物)だと認めたようです。
 帰る時、斎藤利政は、織田軍の鎗を見て、その長さに興が醒めたようで、口を利かなかったといいます。茜部(あかなべ。美濃国稲葉郡茜部村、現在の岐阜市南部)まで来て、従者・猪子兵介が斉藤利政に、「どう見ても、織田上総介信長は『たわけ者』でしたな」と言うと、斎藤利政は、「そうだから無念なのだ。斎藤利政の子が、『たわけ者』の城門の外に馬を繋ぐこと(家臣になること)が目に見えている」とだけ言ったそうです。その後、斎藤利政の面前で、「(織田信長は)たわけだ」と言う人はいなくなったそうです。

2.村木砦攻め

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※東浦町観光協会「村木砦の戦い」のパンフレットに加筆
http://www.higashiura.or.jp/kanko/murakitoride/index.html
http://www.higashiura.or.jp/kanko/pdf/murakitoride.pdf
※今川方の城
・天文21年 鳴海城、沓掛城:今川方へ寝返る。
・天文22年 重原城:今川方に奪われる。

今川軍の本拠地は三河国の岡崎城です。そして、尾張国内の今川方の諸城との中継基地として重原城(鴫原城。愛知県知立市上重原町本郷)を乗っ取りますが、今川方から織田方に寝返った緒川&刈谷城の水野氏に攻められそうであったので、村木砦を築きました。すると、寺本城の花井氏が今川方に寝返ったので、緒川&刈谷城の水野氏が孤立してしまいました。

 緒川&刈谷城の水野氏を助けようとした織田信長ですが、問題が3点。
①兵士の数が足りない。
②居城・那古野城と村木砦の間に今川方の城がある。
③そもそも村木砦に向けて出陣すれば、織田大和守家が清洲城から出陣して那古野城を落とすのではないか。さらに、出陣した織田信長軍は、織田大和守家と今川家に挟み撃ちされるのではないかという懸念。
そもそも、今川軍への対処は、まずは末盛城の織田信勝の役目のはずですが・・・重臣・林兄弟は清洲織田氏(織田大和守家)と内通していたようで、参戦していませんが・・・。ということで、斉藤利政から兵約1000人(大将:北方城主・安藤伊賀守。連絡係:田宮、甲山、安斎、熊沢、物取新五等。史料には、さすがに明智光安や明智光秀は登場しない)を借り、清洲織田氏への牽制として、那古野城の北の志賀(愛知県名古屋市北区志賀町)と田幡(愛知県名古屋市北区田幡)に配置して、出陣しました。今川方の城を避け、熱田から船で知多半島を回って緒川城に入り、水野軍と合流して村木砦を攻める計画でしたが、海が荒れていたので、熱田から1時間程、船に乗っただけで上陸し、陸路、知多半島を東西に横断して、緒川(愛知県知多郡東浦町緒川)についたという。
上陸場所については、東海市横須賀町馬走瀬(後の御洲浜)といい、木田城で兵を整えたと考えられている。水軍を持っていなかった織田氏は、熱田の漁師に頼んだのであり、私は、上陸地点は、日本武尊を祀る熱田神社の関連社である船津神社(愛知県東海市名和町船津)か、日長神社(愛知県知多市日長)付近ではないかと想像している。

※日本武尊関連地名の由来:東征のため都を出て、伊勢神宮へ行き、船で伊勢湾を渡り、船が流されないよう、松の木と縄で結んだので「名和」と言う。尾張氏の娘と結婚すると、鳴海潟から尾張水軍(大将は義兄・建稲種命)の船に乗って東征に向かった。途中、港で下船した時、まだ太陽が高かったので、その地を「日長」と命名した。

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※日長城(日長砦):由緒書に「神社の境内を中心に半円の形で空堀のあとが残っており、東北方の丘(神明山、城山とよばれていた)と共に砦になっていたことがある」とある。

「村木砦攻め」では、織田信長は、複数の鉄砲を用意させ、「鉄砲取りかへ取りかへ放させられ」た。これが、「鉄砲の三段撃ち」の原型だという。(「鉄砲の三段撃ち」の考案者には、①織田信長説、②明智光秀説、③徳川信康説がある。)
かなり強硬な攻めであったので、落としたものの、織田軍にも多くの死傷者が多く出た。「御本陣へ御座候て、「それも、それも」と御諚なされ、感涙を流させられ」たという。(ドラマでも「お前もか」「お前もか」と言っては泣いていた。)
斉藤利政は、報告を聞いて、「凄まじい男だ。美濃国の隣国(尾張国)には、嫌なる人(居て欲しくない人)だ」と言ったそうです。

■『信長公記』「村木の砦攻められしの事」

一、さる程に、駿河衆岡崎に在陣候て、鴫原の山岡構へ攻め干し、乗取り、岡崎より持ちつゞけ、是れを根城にして、小河の水野金吾構へ差し向かひ、村木と云ふ所、駿河、より丈夫に取出を相構へ、駿河衆、楯籠り候。並びに、寺本の城も人質出だし、駿河へ荷担仕り、御敵に罷りなり、小河への通路を取切り候。
 御後巻として、織田上総介信長御発足たるべきの旨候。併し、御敵、清洲より定めて御留守に那古野へ取懸け、町を放火させ候ては如何とおぼしめし、信長の御舅にて候斎藤山城道三かたへ、番手の人数を一勢乞ひに遣はされ候。道三かたより、正月十八日、那古屋留守居として、安東伊賀守大将にて、人数千計り、田宮、甲山、安斎、熊沢、物取新五等を相加へ、「見及ぶ様体、日々注進へ」と申し付け、同じ事に、正月廿日、尾州へ着き越し候き。
 居城・那古野近所、志賀、田幡両郷に陣取りをかせられ、廿日に、陣取り御見舞として、信長御出で、安東伊賀に一礼仰せられ、翌日御出陣候はんのところ、一長の林新五郎、其の弟美作守兄弟、不足を申し立て、林与力、あらごの前田与十郎城へ罷り退き候。御家老の衆、「いかゞ御座候はん」と申し候へども、「左候へども、苦しからざる」の由、上総介仰せられ候て、御働き。其の日は、ものかはと云ふ御馬にめし、正月廿一日あつたに御泊り、廿二日以外の大風に候。
 「御渡海なるまじき」と、主水、楫取りの者、申し上げ候。「昔の渡辺、福島にて逆櫓を争ふ時の風も、是れ程こそ候へめ。是非において御渡海あるべきの間、舟を出だし候へ」と、無理に廿里計りの所、只半時計りに御着岸。其の日は野陣を懸けさせられ、直ちに小川へ御出で、水野下野守に御参会候て、爰許の様子、能々きかせられ、小川に御泊り。
一、正月廿四日払暁に出でさせられ、駿河衆楯籠り候村木の城へ取り懸げ、攻めさせられ、北は節所、手あきなり。東は大手、西は搦手なり。南は大堀霞むばかり、かめ程にほり上げ、丈夫も構へ候。
 上総介信長、南のかた、攻めにくき所を御請取り候て、御人数付けられ、若武者ども、我劣らず、のぼり、撞き落とされては、又あがり、手負死人其の数を知らず。信長堀端に御座候て、「鉄炮にて、狭間三ツ御請取り」の由仰せられ、鉄砲取りかへ取りかへ放させられ、上総介殿、御下知なさるゝ間、我も我もと攻め上り、塀へ取り付き、つき崩し、つき崩す。
 西搦手の口は、織田孫三郎殿攻め口、是れ又、攻めよるなり。外丸一番に六鹿と云ふ者乗り入るなり。
 東大手の方は水野金吾攻め口なり。城中の者働く事、比類なき働きなり。
 然りと雖も、透(すき)をあらせず攻めさせられ、城内手負死人、次第次第に無人になる様に、降参申し候。尤攻め干さるべき事に候へども、手負死人塚を築き、其の上、既に薄暮に及び候の間、侘言の旨にまかせ、水野金吾に仰せ付けらる。信長御小姓衆、歴々、其の員を知らざる手負死人、目も当てられぬ有様なり。辰の刻に取り寄せ、申の下刻まで攻めさせられ、御存分に落去候ひ訖んぬ。御本陣へ御座候て、「それも、それも」と御諚なされ、感涙を流させられ候なり。
 翌日には、寺本の城へ御手遣はし、麓を放火し、是れより那古野に至つて御帰陣。
一、正月廿六日、安東伊賀守陣所へ信長御出で候て、今度の御礼仰せられ、廿七日、美濃衆帰陣。
 安藤伊賀守、今度の御礼の趣、難風渡海の様体、村木攻められたる仕合、慇に道三に一々物語申し候ところに、山城が申す様に、「すさまじき男、隣には、いや成る人にて候よ」と、申したる由なり。

【現代語訳】
一、そうしている内に、駿河衆(今川義元軍)は、三河国の岡崎城(愛知県岡崎市)に在陣していた。重原城(鴫原城。愛知県知立市上重原町本郷)の山岡伝五郎を攻め、重原城を乗っ取ると、岡崎城からの支援を受けて、この重原城を根城(支城)として、小河城(愛知県知多郡東浦町緒川。「緒川城」とも)の水野金吾信元を討とうと、村木(愛知県知多郡東浦町森岡取手)という所に、駿河衆は、小河城より堅固な砦を築き、駿河衆が立て籠もった。近くの寺本城の城主・花井氏も今川義元に人質を出して、駿河方に加担したので、織田信長の敵になってしまい、小河城への通路が断ち切られた。
 後巻(後詰、後方支援)として、織田信長は出陣(して、村木砦と寺本城を落とすこと)を決意した。しかし、敵(清洲城の織田信友)は、清洲から織田信長の留守を狙って、織田信長の居城・那古野城を攻め、城下町に火を放たれたら困ると考え、織田信長は、(昨年(天文22年)4月に正徳寺で会見して「互いに援軍を送る」という同盟を結んだ)舅・斎藤道三に、那古野城を守る軍隊を要請した。すると、斎藤道三から、天文23年1月18日、那古屋留守居として、安藤守就を大将とする兵、約1000人に、連絡係として、田宮、甲山、安斎、熊沢、物取新五等を加え、「見た様子を毎日報告するように」と申し付けて送り出した。どちらも1月20日に尾張国に着いた。
 織田信長は、居城・那古野城の近所の志賀郷(愛知県名古屋市北区志賀町)と田幡郷(愛知県名古屋市北区田幡)の両郷に陣を設営させ、20日に「陣取り御見舞」として、織田信長自ら安藤守就に挨拶に行き、翌21日に出陣(出港)しようと思っていたが、筆頭家老・林貞秀とその弟・通具兄弟が不服を申し立て、林の与力・前田与十郎の荒子城(愛知県名古屋市中川区荒子四丁目。現在は冨士権現天満宮で、境内に「前田利家卿誕生之遺址」碑がある)へ引き篭もってしまった。他の家老衆は、「いかがしましょうか?」と不安になったが、織田信長は「それならそれで、苦しゅうない(問題ない)」と言って出陣となった。その日(出陣の1月21日)は、「物かわ」という馬に乗り、その1月21日は、熱田に泊った。
 出港する1月22日は、予想外の大風であった。「渡海は無理です」と船頭や舵取が言うと、織田信長は「源平の昔、摂津国渡辺津(旧・淀川河口付近にあった瀬戸内海沿岸で最大級の港湾)の福島(大阪府大阪市福島区福島)で、源義経が、戦奉行・梶原景時と軍議で逆櫓を付けるか付けないか言い争った時もこの程度の風であっただろう。何が何でも渡海する。出港させろ」と強く言うので出港させると、目的地まで約20里(78km)もあるのに、たった半時(1時間)で着いてしまった。その日(1月22日)は野営させ、織田信長は、直ちに小河城へ行き、水野下野守(金吾)信元に会い、ここまでの様子(経過報告)、よくよく聞いて小河城に泊まった。

※屋島の戦い:元暦2年(1185年)2月18日午前2時、暴風雨のため、船頭はは出港を拒んだが、源義経は、弓で船頭を脅して、出港を強行する。通常3日の航路を約4時間で阿波国勝浦に到着した。

一、1月24日、夜明けと共に出陣し、駿河衆が立て籠もる村木城へ攻撃を開始した。村木城の
・北は節所(天然の要害(石ヶ瀬川河口)で、攻めるのは不可能であるので)守備兵は居ない。
・東は境川に面した大手門(追手門、正門)
・西は陸続きで搦手門(裏門)
・南は大堀で、向こう側が霞んで見える。甕(かめ)の形に掘った空堀(一説に亀(カメ)の腹の模様の似た障子堀)で、堅固な構えである。
 織田信長は、南の攻めにくい所を選んで、兵を揃えた。若武者たちは、我先にと登り、突き落とされては、また登り、死傷者の数は数えられない(ほど多くになった)。織田信長は、大堀の端にいて、「鉄砲で、狭間3つ引き受けた」と言って、鉄砲を取っ替え引っ替えして連射した。織田信長自らが采配しているので、(いいところを見せようと、あるいは、失敗したら織田信長が責めを負うことになるので、失敗してはならないと)我も、我もと攻め上り、塀に取り付き、突き崩し、また突き崩した。
 西の搦手口の担当者は織田信光で、ここもまた、攻め寄った。外丸に一番に六鹿という者が乗り入れた。
 東の大手口は水野信元の攻め口である。城兵(駿河州)の守備は見事なものであった。
 とはいえ、隙きを見せずに攻め続けたので、城兵の負傷者、使者がどんどん増えて、戦える状態の人が少なくなったので、駿河衆はついに降参した。本来であれば、皆殺しにして攻め滅ぼすべきではあるが、こちらの死傷者数も多いし、日も暮れかけているので、謝罪の言(開城条件、停戦条件)を聞き届けると、後の処理は地元の水野信元に任せた。
 織田信長の御小姓衆も、お歴々(譜代の武士)も、数知れず、死傷し、目の当てられぬ有様だった。辰の刻(午前8時前後)に攻め始め、申の下刻(午後5時前後)まで攻め、思い通りの決着に終わった。本陣へ戻り、「それも、それも(あいつも死んだか、あいつまでも死んだのか)」と言って、涙を流させられた。
 翌日(1月25日)には、寺本城を攻め、城下に火を放って那古野城へ帰陣した。

一、1月26日、安藤守就の陣所へ織田信長は行って、今度の留守居の御礼を言った。27日、美濃衆は美濃国(斎藤道三の居城・稲葉山城)へ帰陣した。安藤守就は、織田信長の謝意、大風をついての渡海、多くの負傷者を出したが1日で難攻不落の村木城を落としたことなど、細かく報告すると、斎藤道三は「凄まじい男だ。美濃国の隣国(尾張国)には、嫌なる人(居て欲しくない人)だ」と言った。

3.知多半島の城・砦・館


横根城 大府市横根町寺田
吉川城 大府市吉川町1
景清屋敷 大府市吉田町1(景清神社)
丸根城 大府市共栄町6
長草城 大府市長草町本郷(長草天神社)
追分城 大府市東新町3(大府北中学校)
平島城 東海市荒尾町金山
清水城 東海市荒尾町弥崎
横須賀城 東海市高横須賀町城山
木田城 東海市大田町城山
富田山中城 東海市富木島町山中
名和城 東海市名和町城谷
薮城 東海市養父町城之内
佐布里城A 知多市佐布里字竹ヶ鼻(佐布里ダム記念館)
佐布里城B 知多市佐布里字城山
大興寺城 知多市大興寺字平井
大草城 知多市大草字東屋敷(大草公園)
寺本城 知多市八幡町字堀之内(津島神社)
日長城(日長砦) 愛知県知多市日長字森下(日長神社)
苅屋城 常滑市苅屋字城下
大野城 常滑市金山字桜谷
古場城 常滑市古場字廻間
越智伊賀守屋敷 常滑市坂井字城塚
常滑城 常滑市市場町5
中山城 半田市岩滑西町1(新美南吉記念館)
岩滑城 半田市岩滑中町7(常福院)
亀崎城 半田市亀崎町2
飯森城 半田市飯森町
半田城 半田市堀崎町
成岩砦 半田市有楽町2(鳳出観音教会)
成岩城 半田市有楽町7
有脇城 半田市有脇町6(有脇小学校)
坂部城 知多郡阿久比町卯坂字栗之木谷(町立図書館)
宮津城 知多郡阿久比町大字宮津(秋葉神社)
草木城 知多郡阿久比町大字草木字下竹林
緒川城 知多郡東浦町緒川字古城
村木砦 知多郡東浦町大字森岡字取手(八劔神社)
山海城山城 知多郡南知多町大字山海字城山
幡豆崎天神山城 知多郡南知多町大字師崎字天神山
蜂屋城 知多郡南知多町大字師崎字蜂ケ城
幡豆崎城 知多郡南知多町大字師崎字明神山(幡豆神社)
篠島城 知多郡南知多町大字篠島字東山(琴平神社)
岡部城 知多郡南知多町大字内海字城山
一色城 知多郡南知多町大字内海字前山
鎌田屋敷 知多郡南知多町大字豊丘字本郷(正法寺)
須佐城A 知多郡南知多町大字豊浜字鵞麦
須佐城B 知多郡南知多町大字豊浜字鵞麦
奥田城 知多郡美浜町大字奥田字谷
岩川三太夫屋敷 知多郡美浜町大字奥田字北条
河和城 知多郡美浜町大字河和字西谷
上野間城 知多郡美浜町大字上野間字西之脇(上野間小学校)
布土城 知多郡美浜町大字布土字明山
天神山城 知多郡美浜町大字豊丘字里
長田屋敷 知多郡美浜町大字野間字下高田
細目城A 知多郡美浜町大字野間字桑之前
細目城B 知多郡美浜町大字野間字冨具崎
長尾城 知多郡武豊町字金下
岩田氏屋敷 知多郡武豊町字上ケ(武雄神社)
富貴城 知多郡武豊町大字冨貴字郷北(白山神社)

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