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節分の中心で愛を叫んでいるのは誰なんですか

結構な数のコントを作ってきた

年間1000本以上はやっている

僕は結構な数のコントを作ってきた。YouTubeに公開されているものだけでも700本くらいある。没になり二度とやらなくなるものなんかも含めると、年間で1000本以上は新ネタを披露している。

「披露している」というのがポイントで、作った・作ろうとしたものはそれの十倍以上ある。いっぱい試していっぱい作ったうえで、コントにならなかったものをツイートしたりnoteの記事にしたりしがちである。そういうわけで、結局ほぼ一日中何かを作っている。

マジでワーカホリック。働くのが好き。マッキンゼーに行ってたらヒーローだったのかな。僕は今の生き方も好きだよ。マッキンゼーに行った世界線の僕よ、こっちの僕は叙々苑食えないけど、叙々苑を食ってたら作れなかったコントがいっぱいできた。お互い頑張ろうな。

何かを面白がるのが得意なのだと思う

自分の長所を高らかに述べるというのは恥ずかしいのだけど、まあたまには言ってもよかろう。きっと僕は、何かを面白がる起点を発見する反射神経に優れているのだと思う。コントをいっぱい作れるというのはその表れの一つだろうし、そもそも芸人になる前から散歩しては10秒ごとに何かを見つけて笑う人間だった。

日常生活でも基本的にヘラヘラ何かを面白がっているし、お笑いに限らず勉強にしろスポーツにしろ芸術にしろ遊びにしろ、広く様々なものを面白がって生きてきた。そういえば今は受験シーズンだったね。受験勉強もだいたいヘラヘラ笑いながらやっていた。何かを面白がることにかけては、きっと昔から能力があったのだ。

いやもちろん、芸人としての通信簿がオール5なわけはない。全然ない。お客さんに伝える技術だとか、ネタとして分かり易くまとめる構成力だとか、細かい演技がどうのこうのとか、未熟なところはわんさかある。じゃないと今、芸人している意味もないしな。全部できたら辞めていいんだから。

ただまあそうね、少なくとも何かを面白がることにおいては、そこそこ習熟した何かがあるんじゃないかと思う。そこは自己採点で5をあげちゃっていいと思う。あと声のでかさも5かな。あんまり人に負けたことがない。

面白がれたらコントにできる

コントの素材はなんだっていい

そういうわけで、僕は日々の面白がりをコントにして生きている。だから、コントの題材は広くなんだっていいことにしている。面白がれたらコントにする。その辺はド直球かつ素直でありたいなと思っている。

もちろん扱い方に注意しなければいけないフグのような食材はある。フグを食えるようにするのがプロの芸人の免許なんだろうな。これは今の時代に限らず、遥か昔からそうだったんだと思うよ。特別なにか新しいルールが生まれたわけではなくて、表面化して言われることが増えただけなんだろうなと思う。

とにかく、フグみたいな素材は扱いを、あるいは出す場所を注意してやる必要がある。ただまあ、一般的に言って広辞苑やウィキペディアに記載されている概念ならば、全てコントにできると思っている。

一方であれだ、僕の頭の中の概念とかはあんまりよくない。人に伝わらないし、自分でも覚えていられない。したがって概念として固定できないからだ。他者と一定の了解を作れる・一定の固定されたポジションのある概念ならば、そこから程よくズラしてやればコントになる。

もちろん行事ごとだっていい

さてさて、最近は冬だ。冬は行事ごとが多い。矢継ぎ早に色々ある。こうなると行事ごとのネタをいっぱい作りたい気持ちになる。

行事ごとのネタというのは、どうしても旬の時期が生まれてしまう。だから年中使えるものになる保証はない。けれど、その代わりにかなり作りやすい。みんなが共通して知っているものを題材にできるからだ。その行事を迎えるとき人がどんな気持ちなのか、おおよその前フリが終わっているのだ。僕にもなんぼかある。

「せん死ゅせん生」
これは運動会のコントである。運動会といえば意気込んで一生懸命やる感じがある。そこに子どもが漠然と抱く死への恐怖みたいなものをひっかけてコントにしてみた。言葉遊びっぽいネタなので、別に同じ内容を普段の日記とか作文とかスピーチとかでやることもできる。だけど、これは運動会設定でやった方が切迫感があっていいんじゃないかと思ってこうしている。

「忘れられた鬼」
これは成人式のコントである。人に成る式と書いて成人式、仰々しいし大上段から振りかぶった名前にしては、割とみんなラフに適当にこなしてしまう。行かない奴は行かないし、行く奴は行く奴で久々の同窓会だな、誰かと友達になりたいな、恋人できたりしないかな、みんな今何してんのかな、飯うまいかな、二次会のカラオケ何歌おうかな、ぐらいのモチベーションしかない。そこに物凄く意気込む人がいたら、みたいなイメージで作った。

「芸人の死」
タイトルの通りお葬式のコントである。お葬式というとしめやかで厳かで物凄く厳粛なムードが漂う場であるけれど、お笑いのネタにされやすい場面でもある。正解と考えられる振る舞いが明確に存在するためだ。このコントでは、下ネタを連発するお笑い芸人が唐突に死ぬ。そして彼の葬式でのスピーチで母親が息子のネタをやる。かなり入り組んだ構成になっているけれど、くだらなさとヒューマンドラマっぽさが両立していて僕は好きである。

とにかくまあ、僕は色々な行事について、その雰囲気や特徴を生かし、何らかの概念と掛け合わせ、コントを錬成してきた。年間1000本作れるペースをあと何年保てるかは分からないけれど、おおよそ平成生まれの人間が経験んし得る行事は、全て潰せるんじゃないかと目論んでいる。

絶対にコントできない行事───節分

鬼は外 福は内 コントは無理

ただ、そんな僕にも絶対にコントに出来ない行事がある。それが「節分」である。とにかくコントに出来る気がしない。鬼は外、福は内、コントは無理である。なぜ節分はコントに出来ないのか。

たぶん僕に限らず、コントを作るとき、人間の頭は積み木とかジェンガとかルービックキューブとか、空間図形を操作するときと似たような動きをする。対象を見つめて、これはこういう特徴を持っているな、ということはここがこうなら全体像がこう変化するな、ここを動かしてみよう、どうなるかな、そういうトライアルアンドエラーを繰り返していくイメージだ。そうやって図形を操作していって、面白くなりそうな形、絵柄、角度を見つけたら、それをコントとして整えていくような流れである。

このとき、なぜ節分はコントに出来ないのか。それはすなわち、①いまいち何をする行事かわからない②節分は自らの面白さに自覚的である 以上2点が理由となる。順に説明していく。

①いまいち何をする行事かわからない

まず、これが最大の問題である。節分はいまいち何をする行事かわからない。いやもちろん、豆をまくとか、鬼がどうこうとか、そういう常識的なところは僕だって知っている。でも、それ以上は何も知らない。もう何年も節分の登場人物になった覚えがない。

そしてそれ以上に重要なことに「どんな人が節分ガチ勢なのか」が分からないのだ。もうこればっかりは難しい。

例えば、ハロウィンはいまいち何をする行事か同様にわからないけれど、「どんな人がガチ勢なのか」は想像しやすい。ガチ勢がどこにいて、どういうモチベーションでハロウィンを楽しむかが割と推測できる。となると、そのガチ勢の群れがある地点の周縁、やや外側にいる人を演じればコントっぽい構図は作れる。

「ハロウィン前日にやたら混むエスニック系の服屋の店員」とか。なんで今日混むんだよ。うちがコスプレ専門店だったらまだ納得できるけど。うちそういう仮装目当てでやってないんだよ。このやたらデカい帽子も別にアニメキャラのとかじゃないんだよ。もともとこういう奴なんだよ。儲かるから良いけど複雑だな。普段使いしてね、マジで。一応普段使いのつもりで売ってるから。え?何?ハロウィンは明日ですよって?いや違うよ、これうちの制服なんだよ。今コスプレしてないわ、帰れー。とか。なんだろう、別に今思っただけの構図だけど、そこそこコントっぽくはなるでしょ。

でもこ同じことが、節分だと難しい。上の案でいうところ、ハロウィンの中心付近(=コスプレ専門店)、その周縁(=エスニック系の服屋)という構図を掴むことができない。節分の中心ってどこなの?節分の中心で愛を叫んでいる奴はどこにいるの?

②節分は自覚的である

あとなんだろうね、これが根本的な問題だと思うのだけど、節分ってコントにしなくても、もともとちょっと面白いんだよな。ユーモアっぽいものを多少取り込んでしまっている。そしてこのとき重要なのが、節分は自分のユーモア性にかなり自覚的なんだよな。

要するに、節分は自分自身が「いまいち何をする行事かわからないものとして見られていること」を理解してしまっているのだ。自覚してしまっている。だからコントにしづらい。

お正月とかクリスマスとかハロウィンみたいな、幸福感に酔っ払ったような、無自覚っぽい隙がない。芸人がズラす前から、「この辺にズレて見えることありますよね」っていう予防線を張って構えて来るところがある。周到なんだよな。浮かれてない。外野に批判されたり、イジられたりしたときの返しをめっちゃ準備してるような感じ。

2023年のいま同じ特徴が当てはまるのは、ヒップホップの文化、セクシャルマイノリティの文化、オタクの文化、匿名掲示板の文化あたりだろうか。自分たちがマイノリティとして見られることを自覚しつつ、ユーモアを織り交ぜる感じ。無理解の目を向けてきた人間に対して事前のトラップが仕込まれている感じ。文化そのものに重層的な仕組みがある感じ。

ただそれらの文化は「誰が中心にいて、何をしようとしているか」が比較的見えやすいし、文化の存在自体が一つの存在証明とか、アイデンティティと引っ付いている感じがある。

だから「それ自体をネタにはしづらいけれど、その文化の中心にいそうな人を、どこかあまりにも居なさそうな環境に配置する」みたいな構図にしてしまえばコントっぽくはなる。「伝説のラッパーが自転車撤去されて取りに行くのを見てしまった」とかって設定にしちゃえば全然コントっぽくなる。

でも節分の場合はその手法も使えない。これまた前の話に戻るのだけど、節分のガチ勢がどんな奴かが分からないからだ。ガチ勢がどこにいるか分からないにも関わらず、自覚的である───怖くない?アノニマスってこと?

節分に幸あれ

僕は今年も節分のコントを作らない

そういうわけで、僕は今年も節分のコントを作らない。どうせ作れないだろうから、作らない。いやもちろん、強引に関係ない話を節分の日ってことにしちゃうだとか、冒頭とオチにだけ豆の話するとか、そういうズルはできるけれど、節分それ自体を本題にできる気がしない。

きっと来年も再来年も作らない。僕は芸人人生を節分のネタを作らないで終えるのだろう。広辞苑やウィキペディアに載っている言葉でも、無理なものがあっただなんて。

それでも節分に幸あれ

ただ僕は節分というものが嫌いなわけではない。コントにはしてやれない。それでも節分に幸あれと思う。今後、家に帰る途中で節分がおなかをすかしているのを見たら、おにぎりの一つでも食べさせてやりたい。駅のホームで節分が寒そうにしていたら、マフラーの一つでも巻いてあげるなどしたい。

節分は自覚的な奴だから、きっとこちらのぎこちない距離感の親しみを受け取ってくれるだろう。きっとそれにうれしさを感じたりもするんだろう。心と心の友情が芽生えかける。

でもあいつは自覚的な奴だから、ちょっくら自意識を発動させて、素直なことは言ってくれんのだ。数秒空けて、こっちを見て「案外マメな方なんですね」とか、上手そうで大して上手くない事を言ってごまかすんだ。そのあと「上手くなくない?」って言うと「あはは」って言うんだ。そういう嫌さあるよな。節分って。

節分の中心で愛を叫んでる奴も、きっとそういう狡い奴なんだよ。それでも幸あれ。たまにはうまいもんとか食え。


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