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「京大卒の芸人」がキャラについて真剣に考えてみた

●これまでの自分の扱われ方

俺は「京大卒芸人」らしい

芸人としてたびたびメディアに取り上げて頂くことがある。物凄くありがたいことなのだけど、99%の確率で「京大卒」という枕詞がつく。

そのたび「ああ、まあなあ」と思う。仕方ないとは思う。だけどやっぱりちょっと悔しい。出身大学名以上に目立つ情報を持っていないのは不甲斐ない。

芸人になってからというもの「廃墟で1週間かけてコントを1000本やるライブ」とか「72時間軟禁されてコントをやり続けるライブ」とか突飛なことをやってきたのだけど、まだ自分は「京大卒芸人」になってしまう。早いとこ「体当たり系コントマシーン」とかって呼ばれたい。

72時間軟禁ライブ中の体当たり系コントマシーン。

「京大卒」という枕詞がつくとき、その情報一つで演じるべき「キャラ」の方向性が決まる。要するに、権力志向の嫌なエリートだ。僕はある程度それをなぞらなければいけなくなる。自分本来のキャラじゃないとしても。

そしてそれがプラスに働く場面は多くない。不必要に敵を作ったり、反感を買ったりして、あんまり得がない。或いは誰かに好きになってもらったとしても、本来の僕がそういうタイプじゃない。後で「あ、なんか違った」と思われる。

さらに普段やっているネタがコントなので、僕は本人役でネタに登場しない。

マヨネーズをやりたい。

それでもやっぱり、学歴が先行してしまうとキャラが固定されるし、そう振舞わねばならなくなる。そして結構嫌な目にも合う。

「学歴高いのが面白いと思ってんの?」
「お客さんを舐めてそう」
「どうせ政界進出する踏み台なんだろ」
「変なサブカル女と結婚しそう」
「教科書で学んだみたいなお笑いしそう」
「どうせボンボンなんだろ」
「東大受験企画でもしたいの?」
実際に言われてきた言葉の数々

なんかあれだ、もう少し的を得たというか、僕にとって痛いところをついてくる悪口だったならば素直に傷むことができた。でも、僕個人に向かって「一般的なインテリ・エリートへの嫌悪感」をぶつけられている感じは、やっぱりストレスになる。僕はそこまでドンピシャにそういう奴ではないのだ。

一つずつ、せっかくなので正直に返答しておく。

「学歴高いのが面白いと思ってんの?」
面白いわけないだろ

「お客さんを舐めてそう」
じゃあなんで笑わせたいんだよ

「どうせ政界進出する踏み台なんだろ」
遠回り過ぎるだろ

「変なサブカル女と結婚しそう」
それは別にいいだろ

「教科書で学んだみたいなお笑いしそう」
まず養成所行ってないんだよ

「どうせボンボンなんだろ」
養成所行かなかったの金ないからなんだよ

「東大受験企画でもしたいの?」
嫌だろ もうほぼやったんだよ
本音

もちろん得することもある。覚えてもらいやすいとか、学校関係の仕事を貰いやすいとか。でも、与える印象で損をするか得をするかは選べない。だから僕は芸人として人前に出るとき、出身校の名前を自分からは出すことはほとんどない。

確かに「京大卒の芸人」ではある

しかし同時に僕は「京大卒の芸人」である。これは、実際に経歴がそうだという以上の意味においてそうだ。

芸人として自分がやっていることには、強めに京都大学の文脈が乗っかっている。あの大学周辺が持っている逸脱をよしとする傾向、ひらめきを重んじる風土、若干の底意地の悪さ、逆張りの悪癖、なんやかんや王道に回帰したがる傾向。この辺の要素は、ネタにも強めに反映されている。

さらに、今日に至るまで10年以上「地方から出てきた髪ボサボサの貧乏学生」みたいな生活を続けていることも重要だ。京大にはそのタイプの大学生が結構多いけれど、僕はそれの一つの典型だった。そういう具体的な生活経験や感覚が、ネタの土台になっている。

しかし、自分の持っている京都大学とのこういった細かな結びつき方、影響関係は「キャラ」からは汲み取ってもらえない。「京大卒芸人」という言葉が先行するとき、いつだって僕は権力志向の嫌なエリートをやらなければならなくなる。

●職業特性としての記号化

芸人という職業の特性

ここで根本的な問題は、芸人という職業の特性だ。色々な芸人が色々なキャラクターをやっている。双子芸人、兄弟芸人、サッカー芸人、野球芸人、女芸人、家電芸人、鉄道芸人、ラーメン芸人、うどん芸人、マジでなんでもある。くくれない芸人は売り出しにくい、とも言われる。

ただ、ここで面倒なのは「〇〇芸人」と名乗るとき、その「〇〇」というジャンルに傾倒している人間の「ド典型」を演じる必要があることだ。キャラは「ド典型」でなければキャラにならない。

例えば「鉄道芸人」と名乗るならば、駅名や路線名については誰よりも詳しくならなければならないし、ちょっとした電車の雑学を喋る必要もあるし、「好きな話題になったら熱くなって早口になる」というような、その属性の人々について誇張したような、わかりやすいポイントを作ることも求められる。

このとき、本当に鉄道を好きな人たちが早口かどうかは問題じゃない。皆が典型だと思っていることを、汲み取って実行する必要があるのだ。たぶん鉄道ファンには喋る遅い奴もいっぱいいるよ。でもそんなの知ったこっちゃない。こういう切り捨てが「ド典型」を作る作業においては行われる。

そういうわけで、「細部や個性を無視して、ひたすらド典型をやらなければならない」というのがキャラの難しいところだ。

キャラを見失っている

記号としての高学歴

つまり、僕が「京大卒芸人」と名乗るとき、求められる振る舞いは「ド典型な高学歴の振る舞い」になる。このとき、実際に高学歴の人間がどういう人であるかは問題ではない。高学歴の人間たちがどのように見られているか、をやらなければならない。

結果、どうしても「実家がボンボンで、庶民を舐めてて、上昇志向の強い、いけすかんエリートオブエリート」をやらなければならなくなる。

無論そういう「ザ・エリート」みたいな人も、実在するにはする。そういう人はどう考えても芸人になどなっていない。なるわけない。

それでも、僕は「高学歴芸人」とラベリングされたときには、「ザ・エリート」の顔をしなきゃいけない。あいつらを代表し「ド典型」をやらなければいけなくなる。

それがかったるいのだ。とにかくかったるい。

僕の人生に名前をつけるとき「京大卒」であることよりも「芸人」であることの方が重要に決まっている。しかし、「京大卒芸人」と並べてしまうと、「京大卒」の方が、キャラクター説明のうえでは勝ってしまう。

学生時代、あんまりにもお金がないから、よくコンビニの廃棄弁当をもらっていた。冷房をつけるのがもったいないから、よくコンビニをウロウロしていた。髪がずっとボサボサだった。僕のタイプの大学生ってきっと一定数どこにでもいるのだけど、それが「記号としての高学歴」から伝わることはない。

キャラを見失っている

●ネタのキャラはもっと自由

ネタのキャラは物まねとして見られる

というわけで、ここまで僕にとっての「キャラ」を演じる面倒臭さを述べてきた。でも、ネタの中でキャラを演じることは、また違った構造を持っている。それについて少し説明していく。

ネタでキャラを演じることは、ほとんど物まねと同じ構造を持っている。重要なのは、「物まねである」という認識が本人にも観客にも共有されていることだ。演者はそれを物まねだと思ってやるし、観客はそれを物まねだと思って見る。誰もそれを本人だとは思わない。

キャラを見失っている

ネタのキャラはずっとフリ

ネタのキャラ芸が「物まね的である」とはどういうことか。もう少し詳しく説明しよう。物まねであるということは、一人でやっていたとしてもどこかに「元ネタ」が見えるということである。

だから、ネタでキャラ芸を行う演者はプレイヤーであると同時にそれを面白がる観客でもある。「このキャラ面白いな」と思い、それを客前で再演していることがありありと浮かぶからだ。キャラ芸を始めるとき、演者はそれを演じながら面白がるという「内輪」を作り上げている。

演者がネタのキャラ芸をやっているうち、そのキャラを面白がる「内輪」も広がっていく。「内輪」が客席にまで広がった時、キャラ芸はウケ始める。内輪が広がり、深まったとき、キャラの可動域は格段に広がる。すると「何をやっても面白い」というゾーンに入る。そいつが言いそうなことを言ってもいいし、言わなそうなことを言ってもよくなる。

このとき重要なのは、ネタにおいてはキャラがオチにならないということだ。キャラはずっとフリとして作用し続け、内輪を広げ、やっていいことを広げ続ける。ネタにおけるキャラ芸とは、空間を侵食する物まねなのだ。

キャラを見失っている

平場のキャラはずっとオチ

一方で、平場におけるキャラは内輪の可動域を広めるための道具ではなく、外部とやり取りするためのパッケージである。平場ではキャラをフリではなくオチにし続けなければならない。そこに記号を演じ続けなければならないことの息苦しさがある。

しかもこのとき、キャラを演じているという自認は自分にしかない。他者や観客は「本当にそういう奴だ」と判断するし、同時に「そういう奴ならそういう振る舞いをもっと出せ」と要求する。

そう考えるとき、僕が言われてきた「学歴高いのが面白いと思ってんの?」「お客さんを舐めてそう」「どうせ政界進出する踏み台なんだろ」などは、悪口でもなんでもなく、正しくキャラ芸を要求するフリだったのだ。

あれらの言葉は「そんな風に振舞えよ」というパスであり、僕がその要求されたキャラ通りの振る舞いをすることでオチる構造だったのだ。

そしてそういったオチありきの構造はこちらの行動をかなり縛る。構造を拒否したところで笑いになるわけでもないし、乗っかったところで生まれる笑いはあんまり長続きする種類のものではない。

●みんなひとりだから

ピン芸人ならではの困難

ここまで書いたようなことは、芸人の文脈に乗せるならば、ピン芸人特有の困難だと思う。これがもし、横にもう一人か二人いるコンビやトリオだったら、やり方も変わってくる。僕の横に相方がいたならば、そこに他者との内輪が生まれるからだ。

そのとき、相方とのやり取りを通じて「内輪」を外部へと拡張していくことで、キャラの可動域を高めることができる。

「こいつこういう奴なんですよ」「こいつこういう奴なんですよ」を積み重ねていくと、「こいつ実はこういう面もあるんですよ~」という裏切りの余地が生まれる。

僕には特にコンビやトリオを組む気はないので、今後も一人での活動をしていくことになる。ただ幸いなことに、平場についてのこうした困難は、だんだんに解消されつつある。

これは年齢的に学生時代が遠くなってきたことで、「京大卒」よりも「京大出てから何やってんだ」の文脈が強くなってきたことが大きい。芸人としても場数が増えていくことで、自分の行動できる範囲が広がっていくことが期待できる。

僕の問題は解決に向かっているし、まあそもそもコントのみをやっている分には深く気にしなくていいことでもある。

キャラから自由になるために

とはいえ、ここまで書いてきた話は芸人活動の話には留まらない。日常生活でも、僕たちはキャラクターを与えあったり、押し付け合ったり、読み取りあったりしている。普段のキャラをどうするかという問題は、きっと誰もが抱えているものだ。

普段の生活において、人はみんなピン芸人だ。みんなひとりで他者と関わっている。みんな偉いよ。「相方」のような、全てを説明して売り込んでくれる人はほとんどの場合いない。人間はみんな、平場のキャラに苦しむピン芸人なのだ。

人間は、どうしたらキャラから自由になれるのか。ここまで述べてきたこと、特に「ネタの中でのキャラ」の話がヒントになる。キャラを通じて内輪を広げることができたならば、キャラはどんどん自由になっていくのだ。

内輪の中でキャラが浸透してきたならば、たまにキャラを裏切ってみると、何かが開けるかもしれない。キャラをなぞったり、キャラを裏切ったり、キャラの周辺をずらしながら往復しているうち、だんだんにキャラの可動域は広がる。そこから別のキャラが立ち現れたり、キャラではない自分自身の姿が見えたりもする。

お笑いには三段落ちという定石がある。二つ同じことをやったら、三つめは違う方向にずらしてよい。そしたらだいたい面白くなる。キャラから旅立つ勇気があれば、いつだって三歩目でキャラが広がる。

きっとなんでもよい


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