楽園 6
波の音がゆっくりと遠ざかって、軽い眩暈が襲う。あと一呼吸、ひとつだけ数を数えたら、このまま目の前の彼女を押し倒してしまうかもしれない。
我慢が限界に達しそうだった。
次に息を吸う瞬間、ポケットの中に入れたiPhoneが鳴った。
「はい、もしもし…」
俺は落胆と安堵が混ざり合ったような、微妙な気持ちを抑えなら電話に出た。
相手はマネージャーだ。「元気か?飯は食べてる?」とまるで母親のように心配している。
「ん…ああ、大丈夫だよ。リフレッシュできてる…うん。仕事の事はまだ考えたくないんだ…もう少し休みたい。」正直に告げると「わかった」とだけ答えて電話が切れた。
彼女は遠く、波の向こう側を見ていた。
俺たちの間に、ついさっきまで流れていた甘い時間は砂が崩れ落ちるようにサラサラと消えてしまった。
「帰ろう!ママが心配してるかも…あなたも少し元気になってきたみたいだし。」
それだけ言うと、振り返らずにどんどん歩き出した。
「ちょっと待って…さっきは…その…
君の事をまだよく知らないんだ…でもこれからも時々、話し相手になってくれる?」
俺は彼女の手を掴んで必死に言い訳をしている。
彼女はきっと、一歩踏み込みたかった。
知っていて俺は逃げた。
そんなに簡単に誰かと関係なんて持てない。
この仕事をしていく上で大切な事だ。
彼女は目を合わせようとしない。
伏せたまつ毛が涙で濡れているようだった。
俺は彼女の手を握り、砂浜を歩き始める。
誰もいない静かな入り江に、二人の影を月が照らしていた。
あの美しい母親なら、躊躇わずにいられたのか?
理性など捨てて、どうにでもなれたのかもしれない。
若い彼女の手を握りながら、なぜだかあの母親の揺れるピアスと濃い口紅を思い出していた。
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