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楽園 5

あんなに大きな声で顔を真っ赤にして叫んでいる。ちょっと面食らいながらも俺は断わる理由もなくOKをした。

携帯と鍵だけをポケットにしまい、ビーチサンダルを履く。

「とっておきの場所があるの。凄く夕陽が綺麗なんだよ。大好きな場所なの。あなたもきっと元気になるよ。」

そう言うと、並んで歩き始める。

長い髪が揺れる度に、ほのかな香りが漂う。
短めのTシャツから、腰に青いバタフライのタトゥーが見えた。
耳元には小さなピアス。シンプルなのに、とても美しい子だ。

日本にいる時も、出会いがなかった訳じゃない。
何度も口説いてくる出版社のライター、音楽関係者、友達のパーティにも必ずそういう女はいた。

誰かにこんなに惹かれる事なんて暫くなかったから、突然の気持ちの変化に、俺自身が動揺を隠せずにいた。

ビーチを抜けて、人の出入りの無さそうな入り江に着いた。内海だから、波が穏やかでとても優しい。暫く進むと、半円状の砂浜が見えてくる。

「ここだよ。夕陽が本当に綺麗なんだ。」

2人で横に並び砂浜に座る。
手が届きそうに近い。
息づかいが聴こえてきそうな距離に、どうしても気持ちが昂る。

興奮を悟られたくなくて、会話を続ける。

「よく来るの?」

「うん。ひとりになりたい時とか…考え事をしたい時とかね。いつもひとりで来るの。」

「俺は来てもよかったのかな…?
君にとって大切な場所なんじゃない?」

そう聞くと、彼女は黙り込んだ。
小さな肩が、少し上下しているのが分かる。

「上手く言えないけど。
一緒に来たかったんだよね…あなたと。」

そう言うと、真っ直ぐな瞳で見つめてきた。
少し緑がかった潤んだ泪。
母親にそっくりな目元が気持ちをザワつかせる。

こんな時、どうすればいいんだろう。
まだ、よくこの子の事を知らない。
この子も、俺の事を知らない。

それなのに、ずいぶん昔にどこかで出会ったような不思議な気持ちになる。

衝動的に彼女の手を握って、黙って夕陽が落ちていくのを見つめた。スローモーションみたいに夕陽がゆっくりと波間に消える。

とても長い時間に感じた。
このまま時が止まればいいのに。

ぎゅっと指を絡めて強く握る。
握り返すその指が、好意を示しているのは明らかだった。

これ以上、ここにいたらマズい。
言い訳できない。
ぐるぐると頭の中で繰り返すのに、動けない。

もうすぐ暗闇が辺りを包み込むだろう。

彼女の艶のある肌に浮かぶバタフライが、こっちへおいでよと誘っている。
暗闇の中を飛んでいるみたいに見えたのは、俺の
錯覚だったのかもしれない。

頭では分かっていても、もう引き戻せないところまで来ているような気がして、軽い眩暈を感じた。

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