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「エヴァンゲリオン」と「全裸監督2」が、家族エンドという妙な共通項

けっこう当たり前の終わり方

ネットフリックスでのみ限定公開された「全裸監督2」を見終わりました。
ネットフリックスのシステム上、オリジナルドラマは最終回まで一斉に公開されているので、見ようと思えば最後まで一気に見られるんだけど、「次も見たいけど、見るのがもったいないなぁ」と思わせるくらい、面白く拝見させてもらいました。

前作「全裸監督」は、文字通りの裸一貫で、村西とおる氏が成り上がっていくお話。

今作「全裸監督2」は、ある程度社会から認知された村西とおる氏が、次のステップとして衛星放送事業に乗り出していき、そして転落して行くという流れ。
その原因として、バブルによる未曾有の好景気が弾け、崩壊してい様が並行して語らえていました。

「全裸監督2」は、前作と同じく、非常に楽しく見させてもらったのですが、強いて不満を述べるとすれば、最後が、あまりにも「まとめ」過ぎ。

村西とおる氏、黒木香氏を中心にして、群像劇の側面もあったのは事実ですが、あまりにも、「風呂敷を畳んでます!」という怒涛の流れに、「そこまでしなくても」とも思わないでもなかったですが、まぁ、小さいな不満です。

それよりも、「おやっ!?」と思ったのは、村西とおる氏のラスト。
奥さんに浮気されて、エロの道に進んで、AVの帝王にまで成り上がったのに衛星事業に失敗して転落、でも最終的には、小綺麗な奥さんと子供をつくって「一応の」ハッピーエンド。

もちろん、村西とおる氏が莫大な借金を背負い、それでも、お子さんをもうけ、仕事がなくなった暇を利用して、息子さんへ自然を利用した学習体験をさせて、結果、難関小学校に合格させたのは事実。

だから、「全裸監督2」のラストは荒唐無稽な終わりではないのだけれども、しかし、事実を100%描いた物語が良い物語というわけではないし、そもそも事実を100%描くなんてことは出来るはずもない。
(作品は自由であっていい! ではありますが、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」まで行っちゃうと、ちょっと戸惑ってしまいますが)

現実を取捨選択し、トリミングし、合成し、端折り、拡張して、それでいて遊離しないで、むしろエッセンスが凝縮している物語に人は感動するのであって、ただただファクトを垂れ流しにすれば、よいわけではない。

さて、「いろいろあって、金もなくなったけど、でも、家族に恵まれてハッピー!」というラストは、定番と言えば定番ではあるけれども、それだけに、「古臭いエンド」と言えるわけで。

権力を敵に回したエロの革命家であった村西とおる氏。
黒木香氏は、その伴走者でしたが、彼女にしても、キリスト教的な倫理観を持った母親との和解という極めて「無難」というか「平凡」なラストに落とし込むしかなかったのは、「全裸監督」が地上波では決して放送できない過激さを売りにしていただけに、皮肉と言えば皮肉。

バルブの崩壊

さて、似たような最終回を今年迎えた作品として、「エヴァンゲリオン」があります。

「エヴァンゲリオン」のテレビ版は1995年放送開始。バブル崩壊後に生まれた作品になります。

かつての日本は、「japan as no1」とも言われて、少なくとも経済面では世界のトップに君臨しましたが、栄華は長く続かず、一気に転落。
その後の日本は、「失われた10年」とも「失われた20年」とも言われました(言われてます)。

「エヴァンゲリオン」が語られる際、世紀末的な世相=「世界の終わり」というイメージがオーバーラップして語られることが多いです。
オウム真理教は、バブル全盛期の物質的な豊かさから背を向けた反動で世界に対する宣戦布告となってしまいましたが、「エヴァンゲリオン」の場合は、そもそも、その倒すべき敵「物質的に満たされた社会」すら崩壊していた時代に誕生した作品で、「使途」という外敵は、

私達人間もね、アダムと同じリリスと呼ばれる生命体の源から生まれた18番目の使徒なのよ。他の使徒たちは別の可能性だったの。人の形を捨てた人類の。ただ、お互いを拒絶するしかなかった悲しい存在だったけどね。
「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」より

と、葛城ミサトが語っているように、人類(主人公)にとって真逆というよりは、周縁・並列・類縁であり、「お互いを拒絶するしかなかった悲しい存在」とされているように、コミュニケーションが成立しないから「敵」であるという、時に巨体でもって人類に攻撃を仕掛けてくるが、実は非常に身近な存在であり、そして、「旧」にしろ、「シン」にしろ、最終的なラスボスは、主人公碇シンジの父親なわけで、一親等という、まさしく極々近い人間です。
「エヴァンゲリオン」という物語では聖書からの引用を散りばめて、壮大なスケールで描かれているようで、最終的には「親子の葛藤」という極めてミニマムな問題に落ち着いているあたりが、バブル崩壊後、もはや経済偏重や、その反動である精神主義/神秘主義ではなく、所詮は身近な「人間関係」こそが最大の課題、または、課題にならざる得なかった。
後に、「個人と世界の問題が直接につながっている物語」は、「セカイ系」と呼ばれるようになりましたが、逆に言うと、個人(自分)の救済こそが全て(世界)であり、極論すれば等価値なのであって、でありながら、世界の救済が個人的な問題の解決となることはない。

この片務的な世界観は、大きな物語を共有できず、個々人の趣味趣向が多様化して、個人が、より深く鋭く孤立化していく時代の要請でもあったように思えます。

旧劇場版にてレイの「希望なのよ。ヒトは互いに分かり合えるかも知れない」や、カオルの「好きだ、という言葉とともにね」というセリフに対して、主人公の碇シンジは、

だけど、それは見せかけなんだ。自分勝手な思いこみなんだ。祈りみたいなものなんだ。ずっと続くはずはないんだ。いつかは裏切られるんだ。ぼくを見捨てるんだ。でも、ぼくはもう一度会いたいと思った。その時の気持ちは本当だと思うから。

と述べて、「人類補完計画」によって、全ての人類が一つになろうした流れを止めて、最終的には、アスカと二人で元の世界に戻って来る。

そこからは難解なシーンで、どう解釈するのか、人によって意見は分かれるとこでしょうが、他者を受容・許容すると碇シンジは宣言をしておきながらアスカを殺そうとする。
その行為に対して、アスカの方が、自らの首を絞めようとしている腕をさすることで、むしろ、彼女の方が先に、受容・許容のサインを示すものの、最後の最後、泣き出したシンジのそばで、「気持ち悪い」と吐き捨てているのは、「人間関係」、つまりは「コミュニケーションこそが最大の問題」である時代の、他者を受容・許容しながらも、決して感情が共有されるわけではないという、「当たり前」と言ってしまえば「当たり前」の世界観が提示され、そして、そこで生きていかなくてはいけないという覚悟/諦念の見えるラストだったと思います。

それから

そして、20年以上の時間を経て、再び最終回を迎えた「エヴァ」シリーズ。
TV版を入れると、三度目の最終回でして、「3度目の正直」。

「人と一緒にいるからと言って、決して寂しさは埋まるものではない」という近代的な孤独に耐える覚悟を示した、と個人的には解釈させてもらった旧劇場版からは、すっかり変わって、かつての少年少女たちには、すべてパートナーがあてがわれ、なんなら子供いて、「旧劇場版」では、「帰ってきたら続きをしましょう」と成人から未成年に接吻をしていたミサトさんも、ちゃんと(?)加持さんと復縁できていたようで、「ひとはみな 一人では 生きてゆけない ものだから」と言わんばかり。

よく言われることではあるのですが、「エヴァンゲリオン」は、庵野秀明監督の私小説であり、魂の遍歴なのだから、安野モヨコ氏というパートナーを得たことで、私生活における精神の充足が叶った反映なんだろうけど、一部のオタク層から、「今さら、家族バンザイ! って言われても」という嘆きを生んだのも、むべなるかなと思います。

「バブル経済崩壊後の混乱期に生まれたエヴァンゲリオンの20年後の総括」が、かつてと反転し、「バブル経済の終わりを描いた全裸監督2」では、「安直」と言っては言い過ぎではあるだろうけど、「家族」という落ち着くところに落ち着いてしまい、奇妙な一致を見てしまったのは、「多様性」が声高に叫ばれる時代において、大衆の反動、郷愁、疲労からの、現代の日本の保守化のあらわれであり、右傾化を示唆している・・・・・・ということはないと思います。

もし、そういうことを言いたいのであれば、もうちょっとサンプルを増やさないと説得力がないよね。たった2作品では、なんとも。

権力者からは弾圧されながらも、大衆の欲望に寄り添って、エロの革命児として世間に出てきた村西とおるを描いた物語も、かつて「個」として生き抜く覚悟を表明していた物語も、とどのつまり「家族」によって人生・魂の平穏を得られるという落着は、「今さら」感があるのも事実ですが、逆に言うと、「古臭いとか意固地にならずに、これはこれでいいもんでしょ?」という「多様性の時代」からこそ提案できたラストにも思えるし、政治的なスタンスとは関係なく、単純に日本人の平均年齢が上がって、もう若い頃のように意気がっていられない人が多くなり、ぬくもりにすがりたくなっているのかもね・・・・・。

そういや、鬼滅も家族エンドだった・・・・・。

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