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くさったさかなの目をしてる(09)

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 疲れているはずなのに、いつもと同じように携帯が鳴る前に起きてしまう。起床のアラームが鳴るまでの、ほんの数十分であっても体を休めようと目をつぶり、静かに横たわっているが眠りは訪れない。アルコールと疲労のこびり付いた寝不足の頭を片手で抱えながら、トースターにパンを入れて、つまみを回す。シャワーを浴びなくてはいけないと分かっていながら、椅子に座ったまま、電熱線が赤く光る様を漠然と眺めている。


 テレビでは、いつものように国内の感染者数が公表され、政府の対応が説明され、民間企業の苦境が報道されている。最近になって海外で判明した後遺症について聞き流しながら、最後の一本は余計だったと後悔する。


 カスで汚れたガラス扉の向こう、真っ白だった食パンは、ゆっくりと色を濃くしていく。ダイヤル式のタイマーは、「ジィー」という低い音を発しているが、矢印は同じ数字を指したまま、動こうとはしない。いっそ、電源コードが内部で断線でもしてくれたらと思う。壊れてしまえば、否応なしに購入を決断することになるだろうが、その状況に追い込まれたら追い込まれたで、まったく愛着など抱いていないと自負しておきながら、まるで義理立てでもするかのように新品を買わずに、生のパンをくちゃくちゃと嚥下する朝食を甘受するのではないだろうか。


 トースターから漂うパンの焼ける匂いが鼻をくすぐるが、深夜に摂取したつまみは、まだ胃に居座っているらしく、食欲を刺激しないどころか、芳しくない体調をいっそう惑わす。無理に栄養を摂取するよりは、朝食を抜いた方が、昼前に刺すような空腹を覚えることになるにしても、体には優しいに違いない。そうは分かっていても、食事は活力源であるという建前をテコに、仮初めの口福を求めて理想通りに色付いた食パンをトースターより取り出し、マーガリンを塗りたくって頬張ってしまう。美味しいと感じられるのは一口目だけ、喉を下って飲み込もうとしても、せり上がってくる膨満感と交差し、生み出された倦怠と不快が全身を犯す。普段であれば、トースターがパンを焼き上げている最中にシャワーを浴びているのだから、急がなくてはいけなかったが、予想される拘束時間の長さを思うと、疲れた体を上から目線で叱咤激励することも、下手からなだめすかす気にならない。


 「インフルエンザ」のウルシバラは全快を目前にして妻が発熱、欠勤は継続することとなり、ヤマキとキタには土曜日も出勤してもらい、私だけ、その翌日も夕方まで仕事をした。ウルシバラからのメールでは、週明けには必ず出勤すると明言していたが、つまりは今週も土曜日は出なくてはなるまい。


 かつては会社のノートパソコンを自宅に持ち帰るのは禁止されていたが、来世紀まで実現不可能だと思われていた自宅勤務は、今年になって解禁から瞬く間に推奨、そして基本となった。宣言の解除直後は、基本はリモートワークだったのに、瞬く間に推奨になり、今は許可制、土日は自宅での仕事という手もあるが、リモートワークでの残業は許されていないのでタダ働きとなる。サービス残業で会社に貢献しようにも、FAXでなかれば、正式なやり取りと認めない取り引きさも多く、宣言下と同じく、どんなに不平不満を言ったところで、会社に行かなければ仕事にならないのが我々の業界なのだから、あれやこれや、自らが陣頭に立って、膨大な労力を費やして、いろんな人に頭を下げて、各方面からの苦情を無視して業務改善を目指すよりも、目の前に存在する仕事をやっつけることこそ手っ取り早いのであり、余計な仕事が発生しないことを祈って、働くしかないのだが、なにかあるかもしれないぞ、と警戒し、期待はしないでおこうと自らに言い聞かせておくことも大事である。


 電車の時間に合わせてシャワーを慌ただしく済ませる。スーツを着て、いささかくたびれてきた革靴を履いて、アパートの外に出ると、小走りで駅に向かう。エスカレーターを駆け上がり、プラットホームの白線の前に立って息を整えると、いつもの電車がやって来る。


 つり革につかまりながら、ふと、いったい今日は何曜日なのだろうかと訝る。三十代になると休日を持て余すことも多くなったが、仕事とは隔絶された二日間を差し挟むことで年月の経過を実感していたのであって、火曜日が金曜日に、木曜日が水曜日に入れ替わったところで、なんの支障もきたすことのない鋳型から取り出したような日常の連続、自分という個が、茫漠とした大きな流れに取り込まれてしまったようで、頭の中で指折り月日を数えるのも面倒、携帯を取り出して曜日を確認するのも億劫、ただただ、何曜日なんだろう? という疑問だけが解消されないままモヤとして頭の中を覆っている。


 行き帰りで一日に二回、就職してからずっと使っている乗換の西日暮里駅、無警戒に人の流れに身を委ねていた私は、いつの間にか派手な赤い色のマスクをしたヤマキと並走していた。慣れぬ駅で自分の向かっている先が間違っていないか集中していた彼は、まったく私の存在に気がついていなかった。歩幅を狭めて距離をとるような姑息な手段は最早手遅れで、仕方なく「おはよう」と挨拶した。声のする方に振り向き、私であることを確かめた彼は、左手に持っていた通勤カバンと同じくらいの大きさをした紙袋を隠すように右手に持ち替え、かたい声で「おはようございます」と返した。西日暮里で彼と出会うのは初めてのこと、「珍しいね」と素朴に述べると、「えぇ、まぁ」と言ったきり黙った。行き先は同じであるから、離れ離れになるのも不自然、二人一緒に歩くものの、いつもなら下らない話題で、世間や知人を見下している彼が静かなままなのは、私に落ち度でもあるのだろうかと考えてしまいたくなる。昨日の彼は、恥ずかしげもなく勤勉さを披露し、昼休みも机から動くことはなく、七時前には仕事を終え、悲痛な顔で、「すいません」を連呼して職場を去っていったことが思い出される。


 乗り換え用の改札で、壁に大きく貼られた路線図が視界に入り、退職したサカガミも同じ乗換駅を使っていたことに気がつく。隣を歩くヤマキの服装を確かめると、ネクタイの柄は覚えていなかったが、ワイシャツは下ろし立てだろう。「ズーム飲みとか、やったことあります? 味気ないですよねー。やっぱ、酒飲むなら、顔を合わせないとダメですよ。大学の友人と飲むことになったんですけど、そいつさ、飲み屋は恐いとか言うんですよ。オレからしたら、そんなの気にして、どうするんだって、伝染るヤツは伝染るし、伝染らないヤツは伝染らないって言ったんですけど、どうしても恐いって言うから、仕方なく、そいつの家で家飲みですよ。社会人にもなって、なにやってんだろうって思ったんですけど、でも、大学時代思い出して、意外に楽しくなっちゃって。で、ついつい飲み過ぎて、そのまま寝ちゃって。家飲みなら安上がりだろうと思っていたのに、結局、シャツを買うことになって、むしろ金がかかっちゃいましたよ」などと、いつもの生意気な口調で語ってくれたら、「あぁ、そう」と、余計な詮索をしなくて済んだだろうに。浮気をしておきながら、小さな嘘をつくことにためらいがあるというのは、滑稽な善人とすべきか、小心の悪人とすべきか。


 地上のホームに向かって階段を上がっていくと、大勢の流れに逆らうスーツ姿のサラリーマンと度々すれ違う。外に出る前から、人いきれと苛立ちがこぼれ落ちており、ヤマキは「えっ、マジで?」と驚いたが、頭上の電光掲示板に「人身事故発生のため、運転を見合わせています」という文字が流れているのを見ても、やっぱりなと平常心を保った。日曜出勤があるかもしれないと心理上の保険を掛けておいた先見の明に、自分で感心する。


 ここかしこから、「すいません、列車が停まっちゃって」という謝罪や、「直にクライアントに行くから、資料持って来てくれる?」という指示が聞こえる。アナウンスもなしに運行が再開されるはずもないのに意味もなく線路の先を見詰め、別ルートを求めてスマホを操作し、遅刻の大義名分を得たブレザーの集団が頭を寄せ合ってゲームに興じている。電光掲示板に流れるメッセージが突然消え、ホームの人々の注目が集まったが、直ぐに「人身事故発生のため、運転を見合わせています」という見慣れた文句が再び表示された。


「今日は終電になりそうですね?」と、ヤマキが言った。
「そうだな」
「先輩、日曜日も出たでしょ?」
 妙な気遣いをされるのも面映いので、「あぁ、昼過ぎには帰ったけど」と過少申告すると、ヤマキが気になっていたのは私の体調ではなかった。
「残業代、けっこうになるでしょ?」
「ちょっとしたお小遣いにはなるだろうな」
「どうするんです? なにか買います? あっ、貯金とか、そういうのはナシで。もしかして、風俗で、パァーって使っちゃいます?」
 「もう風俗なんかで、金を使いたくないよ」と老成をアピールしてから、「貯金」という単語が封じられてしまうと何も思いつかないものだと悲しくなり、「トースター、買い換えるかな」と口をすべられしてしまい、「まだ買ってなかったんですか?」と呆れられる。
「実はね、そうなんだ。ちょうどいいのが見つからなくて」
「いやいや、そういう問題じゃないです。危ないですって」
「君は? 君は、なに買うの?」
「僕はですね、新しいプレステ買おうかなって」
「足りる?」
 「足りるでしょ、さすがに」と力強く言った。
 ポケットに入れていた会社支給の携帯が震えたので取り出すと、画面には取引先の名前が表示されており、今日の朝一でメールを返信するつもりであったことを思い出し、受話器のマークを右にスライド、「どうもどうも、すいません、今、ちょっと電車が動かなくて、まだ出社できてないんですよ、すいません」と、徹頭徹尾、低姿勢をつらぬく。


 電話を終えて携帯に転送された会社のメールをチェックすると、ウルシバラの担当で、面倒な取引先からの問い合わせを見つけてしまい、もしかしたら知っていることがあるかもしれないと、「サンヨウさんからの納期について、知ってる?」と聞いたが何の反応もなく、横を見ると、ヤマキはイヤホンをしてユーチューブの動画を見ている。担当のウルシバラが病欠で、さらに代わりの人間も人身事故で足止めを食らっているので、会社に着き次第、お調べします、というメールを客先に送る。


 姿は見えないが、「どうしてくれるんだ?」と駅員に噛み付いている男の声が聞こえる。「バスなどの振替輸送はないのか?」「いつになったら復旧するんだ、時間を教えろ」「無駄になった時間をどうしてくれるんだ?」など言い張り、一部は首肯することの出来る主張もあったが、すっかり東京に飼い慣らされてしまった人間からすれば、鉄道会社が受け入れるはずもない無理ばかりで、そもそも男の高圧的な物言いは不愉快、罵声を黙らせる為に早く電車が来て欲しいと願った。


 地下へ続く階段にまで勤め人や学生があふれており、ホームの先客たちは無言の圧力にさらされ、ようやっと確保した陣地は削り取られていくしかなく、背後の蠢動を感じて数センチでも前に詰めようとするが、前に立つ男は、細長く折りたたんだスポーツ新聞を凝視して外界の動きなど関心がないばかりに微動だにせず、仕方なく左前へつま先をわずかに動かすと、最前列に、すっきりと整えられた襟足と生白いうなじを見つけてしまう。駅に呼び出された翌朝、母親から、「もう大丈夫なので、地元に帰るように言われました」と涙ながらの電話を受け取ったが、彼が会社にあらわれることはなく、また病欠の連絡もなく、ぎっちりと仕事が詰まっているのに、あれこれとNGワードを避けながら「どう?」などと電話をする余裕もなく、どうせ端から戦力には数えていないのだから、無断欠勤については積極的に気を回さないように心がけていた。


 人垣の隙間から垣間見える見覚えのある後頭部を、魅入られたように呆然と見詰めていたが、「おれは忙しいんだよ、電車はいつ来るんだよ」という男の叫びを聞いて、死ぬのだろうか? と、電車の到着に合わせて飛び込むかもしれない可能性が思い浮かび、視線を逸した。隣のヤマキは、私の動揺も彼の存在にも気がついておらず、先程と同じようにユーチューブを見ている。大勢の中で笑声を発するようなアホウではなかったが、こらえ切れず片頬が愉快につり上がっており、小さな画面に興じるのん気さを目の当たりにして、「まさかね」と考え直す。そう簡単に、死ぬるはずがない。


 とにかく今週を乗り越えれば一段落、休めるのは次の次の土曜日になるだろうが仕方あるまい、たまにはこういうこともあるさ、残業についても遠慮なく正直に申告させてもらい、多少なれども頑張ったということをアピールさせてもらうつもり、今回ばかりは苦い顔で、売上に直結しない努力だとか説教されたりはしないだろうし、五人で回していた仕事を三人でやっつけているのだ、どうにかこうにかクレームもないし、それだけでも十分だ、死ぬのだろうか? 会社に着いたら、先ずはサンヨウの件だ、あそこの担当は、うるせぇーからな、ちょっとしたことで直ぐにギャーギャー騒ぎ出す、そりゃ、五年前だったら、ワガママ言えるくらいの売上あったけど、こんな状況になっても、よくもまぁデカい顔ができるよ、大したものだ、昔、稼がせてやっただろうと思っているのだろうが知るかよ、死ぬのだろうか? それって前任者の話だろ、今は関係ねぇだろうが、とは言うものの部長経由でのクレームなど受けたくないし一番に処理しなくては、午前中のうちに終わらせられるだろうか? 一応メールは送っておいたが、それにしても我ながら言い訳満載の情けないメールだが遠回しの表現が通じる相手でもないのだから、そうなるのだろうがまったく、ヤマキじゃどんな対応をするか分からんし、キタだと不満をこっちに向けてくるだろうから、ウルシバラでちょうど良かったのだが、こうして、またあいつの相手をしなくてはならないとは、死ぬのだろうか? 昼飯はどうしよう? コンビニで弁当でも買って行こうか? いくら出勤が遅れても別に遊んで遅れるわけじゃなし昼は昼で休みたいが、しかし、早く終わらせないと、死ぬのだろうか? うん? 緊急? 要返信? たくっ、なんだこれ、あぁそうだ、そうだ返すの忘れていた、アンケートか、あぁもうアンケートなんか、いつでもいいだろう、また研修やるのか、もういい加減にしてくれ、経費経費って言いながら余計なことに金を使いやがってと思っちまうだろうが、どうせまた現場のことをロクに知らない人間が理想論を振りかざすか、私はこうやってきましたっていう自慢話だろ、死ぬのだろうか? あいつらに払う分を、五百円でも千円でもいいから、こっちに上乗せしてくれよ、それが無理なら、無駄な時間の浪費で仕事の邪魔をしないでくれ、死ぬのだろうか? どうでもいいんだよ、喜びの分かち合い、とか、仕事があなたを成長させます、とか、成功とは数字の達成ではありません、もういいから、仕事させてくれ、そういうのいいんで、会社にいたくなんかねぇーんだよ、早く行って早く帰りたんだよ、死ぬのだろうか? クソっ、バカが朝からやりやがって、しかしまだかよ、いつ来るんだよ、いつまで待たせるんだよ、がんばれよ、こんなのしょっちょうあるんだから慣れとけよ、あぁもう、とりあえずさ、電車が来てくれたら、死ぬのだろうか?

「大変お待たせしました。ただいま連絡がございまして、運転再開となりました。乗客の皆様にはお急ぎのところ…………」
 構内に流れたアナウンスに多くの人間が安堵の吐息を漏らしながらも、乗車への壮絶な争いを覚悟して、携帯をしまい、荷物を持ち直し、顔を引き締めた。いち早く電車に乗り込むべく、前の人間に体が触れないギリギリまで詰め寄ることで出来上がったホーム後ろの隘路を、階段での待機組が次々と埋めていく。息苦しさを覚える混雑であったが、それでも線路の先に両目を灯らせた電車を見ると、降車する人々の為にスペースを設ける。「危ないので、白線の内側までお下がりください」という駅員の切羽詰まったアナウンスが流れる。万が一のことを考慮し、彼の存在に気が付かなったアリバイをつくるべく、私は、不自然にも斜め上を向いて、人々の頭上と、ホームのひさしに区切れた空間に収まる空を眺めた。
 死ぬのだろうか?
 速度を徐々に落として近付いてくる鉄の箱が、その巨体を大慌てで停車させようとして甲高いブレーキ音が鳴り出すのを今か今かと待ちわび、どうしたこわいのか、また脂汗でも流して立ちすくむしかないのか、それとも確実な成功を期して限界を見極めようとしているのか、と臆病と勇気を身勝手に当てはめて息を呑み、ついには私の前を何事もなく車体が通り過ぎて行ったので、裏切られたなどと失望するのも滑稽だと生真面目に力んでいた自分を鼻でフッと笑った。


 人間がみっしりと充填された電車の扉が開いて降りたのは数人のみ、中には、後ろから押されて一時的にホームに避難しただけの乗客もおり隙間らしい隙間など見当たらないのに白線の内側で待ち構えていた人々は果敢にも乗り込もうと挑み、「直ぐに次の電車が参りますので、無理な乗車はご遠慮下さい」というアナウンスが繰り返され、力づくで車内奥に押し込む強引さに乗じて小狡く体を滑り込ませ、出発のベルがけたたましく鳴り響き、もう無理だと車体から離れようとする女を尻目に、紙袋の取っ手に腕を通して肩から掛けたヤマキが背中から飛び乗ると、弾き出されないように片手を上げて扉の上のでっぱりをつかみ、天井のスピーカーからは「無理はなさらないで下さい」とヒステリックな声が響いたが、もう片方の手で最前線に立っていたサワムラを招き、謝絶の意志を示して顔の前で振られた手を強引に引っ張ると、つんのめって前に進み、煮え滾るような過密さに苦々しい面を並べた乗客たちに頭を下げてから、振り返ると尻を先にして、左右に謝りながら両足をどうにかこうにか車内に置くことに成功し、両手を高々とかかげた。「それでは出発です」という投げやりな声がして扉が閉まろうとしたが、どこかで荷物でも挟まったらしく、再び開いた。磔刑にでも処されたかのように両手両足で二人は踏ん張っている。ヤマキが顔を左右に振るのに合わせて、サワムラもホームを見渡す。


 どうやら私を探しているようではあったが、マスクで覆われていない上半分、どうせ、また濁った目をしているのだろうから、彼らに見つからないようにと、前の男が持つ新聞紙の影に隠れた。

[終わり]

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