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「マイ・フェア・レディ」のイライザは、はたして幸せか?

この映画も、すでに10回は見ているだろうか。ぼくは一人の女性のサクセスストーリーとしてこの映画を見ていた。ロンドンの下町生まれで、コックニー訛りの、髪の毛はぼさぼさで、顔は煤だらけの小汚い娘がプリンセスのように変身を遂げていく。父親は娘に金をたかる、赤鼻のアル中かと思われる汚い伊達男である。イライザはそんな父親など当てにしないで、花売りの娘として逞しく生きている。彼女は花卉(かき)市場(あるいは大きめの花屋?)に落ちている花を拾い、それを道行く人に売って生計を立てている。妙に鼻にかかった英語で、キンキン喋るのが、彼女の話す下町言葉である。オーストラリアのようにDayがダイとなるような言葉だ。この映画、清純なオードリー・ヘップバーンを汚くさせる、というだけで、もう客の入りが分かるような設定である。マーク・トゥエイン『王子と乞食』を出すまでもなく、貴族と貧民の交換というのは、普遍的なテーマである。

原作はバーナード・ショーで、Pigymalion(1913)という。動かない彫像も愛によって生命が宿る、というのが“ピグマリオン効果”である。この映画のことを調べると必ずこの解説が付いてくる。バーナード・ショーは世紀の皮肉屋と言われた戯曲家兼小説家である。そんな素直な解釈など信じられるだろうか。

前置きはこれぐらいにして本題に移ろう。音声学の泰斗ヒギンズ教授は市の下町に出没しては、コックニーの収集に余念がない。そこで出会った飛びきり下品な娘がイライザである。ガチョウのようにギャーギャーがなり立て、ひどいことを言われると目を剥き口を大きく開けてゥグァアといったような声を出す。そして口癖は「私はまともな女だよ」「堅気の女だよ」である。教授は、こんな娘でも話し方を訓練すれば、事務員でも花屋の店員にでもなれる、宮殿の舞踏会にも出せる、とのたまう。その言葉がイライザのこころを鷲づかみにする。雨の降る通りではなく、屋根のある花屋に勤められるなんて!

冒頭の場面で、この映画の主な登場人物といっていいヒギンズ教授とピカリング大佐は顔を合わせている。大佐は英梵辞典を作った言語学者で、インドから教授に会いに来たのである。ヒギンズは音声学が仕事かつ趣味という男である。ABCヒギンズという音韻表を作ったらしい。
イギリスでは言語が階級差を表していることは広く知られている。サッカーのベッカムの言葉を、「彼は労働者の生まれだから」と言った知人がいたが、まさにそのことが背景になっている。アッパーの話す言葉と、発音も違えば、イディオムも違う。言語に興味をもつ人間が探究したくなるのも分からないでもない。これが一つの都市の中の話だから、われわれの想像を超えている。ロンドンは元々、音声学が盛んなところであるようだ。バーナード・ショーはどこかでそのネタを掴んだものと思われる。

「マイ・フェア・レディ」(1964)はストーリーをもったミュージカル映画である。本来、ミュージカルは踊りが主のジャンルなので、ストーリーなどほぼ取って付けたようなものばかり。だから、どうしてもバックステージものになりがちである。つまり、ダンサーや芸人などの裏話的なもの、ということ。いつ踊り出しても不自然ではないからである。ぼくなどは踊りを見ているだけで幸せになるほうだから、ストーリーが貧弱であろうが、会話から突然踊り出してもまったく違和感がない。タモリがよくその不自然さをからかいの種にしていたのを思い出す。

フレッド・アステアの「バンドワゴン」(1953)は名作の誉れが高いが、それはなぜなのか。先に触れた「ストーリー」が一応きちんと骨格として設定され、そこに芸達者な脇役も配され、セリフも決まっていて、ただ踊って歌っていればいい、というものではなくなったからである。アステアの人気に陰りが出てきたときの映画で、そのことをそのまま劇のなかに織り込んで、話が始まる。実験的な試み、といっていいだろう。やがて「ウエストサイド物語」(1961)など、社会性を帯びた筋が展開されるミュージカル映画が生産される時代がやってくる。この「マイ・フェア・レディ」もその流れに位置する映画である。ナチスドイツの追及の手から逃れるトラップ家の物語「サウンド・オブ・ミュージック」が1965年である。そして、物語、テーマ、演技、セリフ、踊り、そして曲、すべてが混然一体となった傑作「キャバレー」が1971年の製作である。バックステージものでありながら、ここまで社会性を持たせたボブ・フォッシーの手腕は驚くべきものである。彼のコリオグラフィー(身体の動きの演出)を再現したシャリー・マクレーンの映像がYoutubeで見られるので、ぜひご興味のある方は覗いてみてほしい。腕の角度、指の広げ方一つで躍りの表情が変わる。

先ごろ亡くなったイラストレーター和田誠は大のミュージカルファンで、彼は「トップハット」「アニーよ銃をとれ」「スイングホテル」「雨に唄えば」「バンドワゴン」「掠奪された七人の花嫁」の6作を推薦している。ぼくは「掠奪された~」だけ未見だが、「アニー」を選んでいるのはさすがである。ただのおちゃらけたウェスタンと思うと大間違いである。和田は、「ウエストサイド物語」がミュージカル変節のシンボル的な存在だという。簡単にいえば“まじめ”になってしまったのである。ただ楽しく踊っているだけでは、もう客を虜にできない、というわけである。
しかし、喜志哲雄(戯曲家で、先のショーの作品の翻訳もしている。本チャンはハロルド・ピンターである)の『ミュージカルが最高であった頃』には、「アニーよ銃をとれ」の作詞・作曲の問題が触れられている。プロデューサーの2人はそもそも作詞・作曲を手がける連中なのに、なぜ自分に振ってきたのかとアーヴィンは疑問に思う。その2人はすでに都会的で洒落たミュージカル「オクラホマ」「回転木馬」を手がけていたので、「アニー」が「まじめさを欠いている」ということで、アーヴィングに回してきたらしいのである。ということは、常にミュージカルは(あるいは映画は、と言っていいかもしれない)まじめな方向へ行こうとする癖をもっていると言えるのかもしれない。まじめ=社会問題と考えれば「ウエストサイド物語」が出来上がるし、まじめ=芸術と考えれば「アマデウス」「オペラ座の怪人」、場合によっては「マイ・フェア・レディ」となる。

教授から大佐が音韻の聴き分けの指導を受けているところに、イライザがやってくる。ヒギンズの言葉が彼女を動かしたのである。上級の言葉を覚えて、どうにか自分の窮境から抜け出したい。その向上心を、ヒギンズはピカリング大佐と賭けの対象にする。バッキンガム宮殿の舞踏会に出して、素性がばれなければ教授の勝ち、費用一切を大佐が払うという賭けである。

前日はほぼ黒ずくめの汚い形(なり)だったイライザ。今日はめかし込んで、帽子に花を飾り、服も肩パッドが入り、スカートの上にはナプキン(?)がかかった姿で、教授のもとにやってくる。相応のおカネを払うから話し方を教授してくれ、と言う。おカネを出すんだから、私が偉いんだという感じをオードリーは出している。教授が断ると、もっと高く売りつけようというんだろ、と彼女は言う。教授が何か好意的なことを言おうものなら、げすな勘繰りで、性的な誘いと思い、「私はまともな女だよ」と牽制する。
ヒギンズ教授は彼女をドブネズミなどと散々なことを言う。それで教授を差別主義者のように考える向きがあるが、それは明らかに間違いである。教授は階級で言葉が違うのなら、言葉を改良すれば階級は超えられる、といたって合理的なのである。ドブネズミも貴婦人として再生できる、と彼は考える。問題は彼ではなく、下層民はカネに汚く、すぐに下ネタにもっていく、という前提で描かれている製作者側の視点である。これが原作者の視点なのか分からないが、ヒギンズを非難するのは当たらないということだけは言っておかなくてはならない。原作者ショー自体が穏健社会主義という立場だったらしい。そのことがヒギンズの思想に影響を与えている。
ヒギンズは独身主義だという。男女の関係が始まると、女は嫉妬深くなり、何かと口出しするようになり、一方、男は暴君となる。だから、個人であることを大事にする、という主張である。これを見ても、ヒギンズに差別主義があるとは言いにくい(ただし、自分の地位の優越性に無自覚であり、より下位の者への想像力や愛情はかけらもない、という点は指摘しておかなくてはならない。常に彼はイライザの上位にあると思っているが、それが両親から受けた恩恵のおかげだという自覚も当然持っていない。自分がイライザの位置に生まれたら、はたしてそこから這い上がれたろうか、と考えることもない)。

よく民謡の練習をするのに、眼前に蝋燭を立てて、それを揺らさないで歌う練習法がある。イライザも同じことをやらされる。ガスの炎をまえに、In Hartford、Hereford、Hampshire,hurricane hardly ever happens.を言って、Hの音で炎を揺らさなくてはならない。イライザが言うと、アートフォード、エレフォード、アンプシャーとすべてHが落ちてしまう。あるいは、The rain in Spain stays mainly on the plain.「スペインでは雨は主に平原に降る」。音の「エイン」がくり返しになっているが、そこを息を出さないで発音することを強いられる。自分の生来の発音を短時間で矯正させられる――それも遊びの賭けのために、お金やチョコレートで釣って、である。
事が終わったあと、イライザをどうするつもりか、と大佐とピアス夫人(家政婦長)が道義的な問題を持ち出す。またドブに戻すのか、と。教授は、舞踏会で成功すれば7シリング半を渡して、花屋に就職する支度金とする、という妥協案を提示する。しかし、人の人生を人工的に操作することの怖れのようなものは教授にはない。

なかなか発音矯正が進まない状況に、教授が「英語はシェークスピアやミルトンが使った言葉だ」「格調高き言葉は、格調高き英国のしるしだ」とイライザをかき口説く。その言葉に一瞬、彼女の表情が変わり、覚醒の瞬間が訪れる。突然、流暢にThe rain~の言葉が口を突いて出る。教授も大佐も狂喜乱舞で、イライザも椅子に飛び乗り、フラメンコの真似をし、降りて教授とダンスを踊る。教授と大佐は、明日、第一の披露の場となるアスコット競馬場に出かけるのに、彼女に何を着せるかと話しながら、別の部屋へと移る。実はすでにここにイライザを除外して二人で楽しむ様子が見て取れる。しかし、イライザは興奮冷めやらず、有名な「踊り明かそう」を歌う。「彼と踊り始めたとき、私の胸は高鳴った」とここで初めてヒギンズへの思いが明かされる。やや唐突の感があり、しかも歌のなかに紛らせてあるので気づきにくいが、ここで彼女の気持ちを汲み取っておかないと、これからの展開にいま一つ根拠が乏しくなる。それにしても、教授のナショナリスティックな言葉にイライザが反応する――これは一考に値する問題である(ここでは詳細に及ばないが)。

晴れの実践の舞台であるアスコット競馬場、淑女は白と黒、男は灰色で統一したファッションである。すべて女性は大きく優雅な帽子をかぶり、男性はシルクハットである。ヒギンズだけは茶色の背広で、ふつうの帽子、これだけで異端であることが分かる。実際、彼の母親は息子を近付けようとはしない。知人に失礼なことばかり言うからだ。見事な出で立ちでイライザが登場する。やはり白に黒で、大きな帽子。人々の視線が集まるのも当然である。
しかし、習い覚えた上品な言葉に時折野卑な言葉が混じり、話す話題は、身近な人殺しのこと。レースでは、「ケツまくれ!」と叫び出し、完全にお里が知れてしまう。宮殿で成果を披露するのに3週間しか残されていない。言葉は身につけることができても、中身、教養は難しいということだが、それについてはこの映画はまったく触れることはない。

舞踏会の当日に話が飛ぶ。どうマナーを教え込んだのか知りたいところだが、それを始めると面倒なことになるので、省略したのではないだろうか。こういう部分は、劇作上のこととして無視するに限る。
やがて階段をしずしずと下りてくる、白ずくめで、ティアラや真珠の首飾りをまとった、貴婦人然としたイライザ。教授、大佐、ピアス夫人から讃嘆の声が洩れる。教授は先に出ようとするが、イライザのもとに戻り、腕を組む。自分が教えたマナーを自分が忘れていた、というところである。少し教授とイライザの支配、服従の関係に揺れが生じた箇所である。

そして、王宮でのダンスパーティ。この映画のクライマックスといっていい。教授の弟子で、32カ国に通じた男が、出席者の話す言葉からその場に相応しくない者を見つ出す任務を負っている。狙いはもちろんヒギンズが連れてきた娘である。ことあるごとにイライザに接近し、その言葉を吟味する。いくら耳を鋭くそば立てても、やんごとなき出の女性にしか思えない。彼はそうささやき、その評判は瞬く間にパーティ会場に知れ渡る。結局、イライザはパーティのゲストであるトランシルバニアの皇太子から踊りの相手に選ばれ、万座の注視のなか、優雅に踊り回る……まんまと、いやそれ以上の成果をもって、教授の企みは成功したのである。

やれやれ、やっと終わった。それも完全勝利というわけで、ヒギンズ家には緩慢な空気が流れている。大佐は教授を褒めたたえる。その間、イライザは部屋の明かりの届かない隅で、じっと頭を垂れて、何かを堪えている様子。大佐は眠りに部屋に戻り、教授もそうしようとするが、スリッパがないことに気付き、イライザに言うと、涙ながらに彼女が投げつける。「私はこれからどうなるの?」と問いかけるイライザ。「私に何ができるの? まえは花は売っても身を売らなかった。レディになった今は、それだけ」と言い募る。ヒギンズはそれにうまい応答ができない。眠れば元に戻る、と言いながら部屋へと引き下がっていく。

なぜかイライザも教授も、事が成就した暁に花屋の店員になる話を忘れている。恋ゆえに、という解釈が成り立たないわけではないが、イライザが身につけた言葉、マナーは町で使えるものではない。ある意味、高級過ぎて役立たずなのだ。イライザは完全に所属の場を失ったのである。教授のもとを離れ、教授の母親のところに身を寄せるイライザ。途中、自分の育った下町に顔を出すが、誰も彼女とは分からない。彼女の置かれたポジションがよく分かる挿話である。


あとはヒギンズの母の家に逃れたイライザと、それを引き戻そうとするヒギンズとのやりとりがある。捜索願いで警察にピカリングは電話をするが、目の色、髪の毛の色を問われるが分からずにいると、教授がブラウン、ブラウンと即答する。唐変木と見えた教授は、彼女のことを鮮明に観察していたことが分かる。ラストは、ややしゃれている。教授は母の家から虚しく帰り、イライザが初めて教授宅を訪れ、教授料を払う、と言ったときの録音を聴き出す。そこに彼女自身が帰ってきて、録音機を切り、「顔も手も洗ってきたわ」と続きの言葉を言う。「イライザ」と教授は気づき、「わがスリッパを」と言いながら帽子で顔を隠し、深く椅子に座り込むところでエンディングである。

さて、イライザは本当に幸せを掴んだのだろうか。彼女自身、自分が根無し草となったことを知っている。ただのレディになってしまった、花ではなく身を売ってしまった、と嘆いている。彼女はヒギンズによって生活力という根っこを引きちぎられ、もう男に色恋でしか太刀打ちできない、あるいは色恋を材料にして釣られるしかない、不安定な存在にされてしまっている。
前の彼女であれば、たとえ貧相な花売りかもしれないが、男にすがる必要などまったくない。もし花が売れなくなれば、何か違うものを売るだろう。周りの仲間もそれを真摯に手助けしてくれるだろう。娘と符節を合わせたように父親が身を固めることになる。彼は結婚など墓場だと歌う。それは衒(てら)いでも何でもないだろう。そう父親もまたある意味で、自分一人で生きる根を枯らそうとしている(ここの描き方はうまく行っているとは言えない)。


イライザとヒギンズが仲直りしたあと、ヒギンズが命令口調に戻るところは、この映画に相応しい結末である。ぼくはかつてそれをヒギンズの最後の甘え、照れ隠しと読んでいたのだが、いや従前の支配関係はこれからも続くというサインと読む。皮肉な原作者が舌を出しているのが見える。

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