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ぎんこん。ですって。

つい三ヶ月ほど前、私の若い頃の日記を掘り出してきた。大学一年からOLまで、断続的に続く私の気持ちが、そのまま氷漬けになって閉じ込められている文字の羅列だ。こんなものを私の死後発見されたら、成仏できないから破棄しようと突然思い立ったのだ。笑

やめておけばいいのに捨てる前に読み返す。あまりにもそのまんま綴られた感情に、情けないやら愛おしいやら。過ぎた時間は巻き戻せない。なるほどコレが私の人生だったのか。そうだったよね。と、そう思った。
結婚してからは、何も書いていない。
そう、結婚してから私はずいぶんと感情の起伏はなだらかになり、書き記したいと思うことも無くなったのだと思う。

今日は、25回目の結婚記念日なのだ。

夫は普通に遅くまで仕事だし、私は私で色々疲れている普段と変わらぬ一日。
そこで、この日記の中の、ほぼ30年前に書いた「この後の人生と結婚に対する気持ち」を、句読点、漢字もそのままに書き写したいと思う。

この頃は大切な人と離れた後で、誰と結婚するとか想像もしていなかったし、誰とも結婚しないという未来だってあったはずだけど、こんなことを書いていたんだね。お金に関する考え方がガラリと変わったこの日の会話のことも、よく覚えている。
随分と変わったつもりでも、結局何も変わっていない私がこの日記の中にいる。
(この文章の中に出てくる「今野専務」は、OL時代に、私が秘書を務めさせて頂いていた取締役です。)

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1994年 年の暮れ

私の人生のことを考える。私の人生は、ほぼ3分の1は終わってしまった。あとの3分の2、どういう価値基準で生きていけばよいのか。今野専務の話は、結構心に残った。お金がなければないだけ助け合わなければならない。真実だと思う。人生の経験者からそういった言葉を聞くのはめずらしい(でも、男だからかもしれないけどね)。満ち足りた、物質的に満ち足りていることが必ずしも幸せ、というのは違うらしい。というか、そういう人は多いけれども、すべての人がそうではない、そうでない人が身近にいたのは感動だった。
私は、これからいつか結婚すると思うけれども、その時、創り上げたい家庭の理想像が、なんとなく見えてきた。Keyは、お互いに助け合い、支え合う事だ。自分の子供が成人して大きくなり、結婚するぐらいの年齢になった時に、自分たち2人を見て、「両親は、お互いに助け合って、お互いを必要として頑張ってきたんだ」と思われる様な、そんな人生を歩んでいきたい。
自分の趣味とか、それはそれとして、(これは、なくすと人間としての余裕がなくなるから)そういう夫婦になりたいと思う。

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さて、この先はどうしようか。

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