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野球を楽しむ…これが大事です。

野球を楽しむ。

自分の野球人生の中で感動したこと、悔しかったこと、影響を受けたこともろもろと。
人それぞれ野球に対しての考え方や感じ方はもちろん違ってくるのは当然。

長くなると思うが自分なりに振り返ってみたい。

=小学時=
小学2年生から野球を始める。動機は全く覚えていないのでおそらくなんとなくとか、友達がとか、まぁそんなもん。
それでもそれなりに投げること、打つこと、走ること、純粋に野球を楽しんでいた。

しかしある日突然、厳しさしか持ち合わせていない親父がグラウンドに入って来る。
そしてコーチをすると言い出した。

心の中で少年なりに思う「おわった」

その日以来チームを代表してシバかれる日々。
これは虐待の話ではなく昭和末期の思い出。
おかげさまで精神力は強くなったのか。そうではないと信じたい。

=中学時=
中学生は今コーチをしているオール大正(現:大正ボーイズ)に入る。
この時も頭を坊主にするのが嫌で入部をひたすら拒否していたが、突如(多分親父が根回ししていた)家に頭を五厘刈りにされた同級生が親と一緒に訪ねて来る。

嫌な予感しかしない。
そして相手のお父さんがついに言ってしまう。

こいつと一緒にオール大正に入ったってくれと。

数年前の出来事がフラッシュバックする。

ここで人生2回目の「おわった」

人生真っ暗闇のような顔をしている友人を目の前にして、どうしても断りきれず入部、そして坊主が決定する。

ちなみに五厘刈りとはバリカンのアタッチメントを付けずに直で刈りあげるダイナミックなバリカン技術。
山芋がすれるレベルの坊主。
ぜひ山芋のとろろご飯を堪能していただきたい。

何度も言うが虐待ではなく平成初期の思い出。

そんな中でも悪い情報ばかりではなかった。
親父が引き続き小学4年生を卒業するまで監督することになったらしい。
この時ばかりは金村義明さんが甲子園優勝の時に魅せたガッツポーズにも劣らないぐらいのガッツポーズをお見舞いしたことを覚えている。

やっと離れて野球ができる。
そんな心に余裕もできたせいか、中学時は2年生からレギュラーを掴みとり、3年生の時には主将を務め、さらには関西圏で構成されたチームに入り、中国との国際親善試合にも参加できた。
いい思い出が沢山できた。野球もこれでひと段落。

=高校時=
さぁいよいよ高校へ進学。
自分の希望は地元の公立高校に行き、そして青春を謳歌する。これ一択でしかない。

でもやっぱり上手くはいかない。
親父に無理やりある高校に連れて行かれる。そしていきなり練習に参加させられる。それが柏原高校(現:東大阪大柏原)。
そして自分の意思なく決定。

「最悪や...おわった」

この時の絶望は今でも覚えている。
大阪の女子高生から1番嫌われている柏原高校。
そして生徒が2000人を超える男子校。朝から晩まで絶望が火山のように溢れまくる。
これぞ絶望山の如し

そして練習は厳しい、そしてシバかれまくる。そして見渡す限り毎日男子ばかり。

そんな苦しい高1の時代も終わり、2年生からレギュラーとして試合に出るようになる。
このあたりから野球の真の魅力がわかってくる。
頭を使いながら野球をする。自分自身を研究する。量に質が加わっていく。
ただ野球選手としてのピークは高3やったかな。

でも高校の思い出はあまりない。
最後の夏に履正社にコールド負けの呆気ない終わりかた。
同期のエースは久本祐一(亜細亜大学→河合楽器→中日→広島)。
夏の大会前にノックで親指の爪を剥がす。ぶっつけ本番。コールド負け。引退後に爪は完治し、休み肩で亜細亜大学の練習へ。めちゃくちゃ調子が良かったらしく打者のバットを折りまくったらしい。
これについては
"なんでやねん、遅いわ、夏にやれ、なめとんのか、アホ、ボケ"なとなど
さまざま暴言を全員で浴びせることになる。
これは自然、当然、必然。

高校引退後の進路希望は以前から大阪で社会人野球に入りたいと希望していた。
その結果、中央大学
なんでやという思い。
大阪でもなく社会人でもない。大人たちは常に進路の希望は無視。

=大学時=
でもなんだかんだと中央大学での4年間が今の自分が生きていく上で屋台骨となってることが多い。

野球選手としては結果は出せず悔しい思いばかり。
肩鍵盤が既に断裂、選手としては致命傷。4年間は朝昼ボルタレンを服用して痛みに堪える毎日。リハビリの毎日。肩さえ治ればと劣等感ばかり抱えてたような気がする。

このままでは、、、ともがいていた3年生の時、ある後輩の紹介で鳥取県にあるワールドウィングというジムに行く。
ここが自分にとっては光を差してくれた出会いでもあった。数多くのアスリートが合宿に来られている。当時はまだ知る人ぞ知るといったような認識でしかなかった初動負荷トレーニング。野球選手では山本昌さん、イチローさん、他にもたくさんの方がいらっしゃる。ここでのトレーニング合宿で魔法のように肩の痛みがなくなった。
この出会いのおかげで最後まで野球ができ、すごく感謝している。そして大阪に開設されたジムにまた通い始めた。

中央大学の4年間では約10年ぶりに東都リーグ1部へ昇格した時の感動、肩の痛みに堪える悔しさ、そして何よりの仲間が最高などいろいろあった。

=今=
その仲間から影響を受けた言葉を2つだけ紹介したい。
1つ目は、「必死では努力するやつは本気で楽しむやつには勝てない」という言葉を教えてくれた。
確かにこの友人は本気で野球を楽しんでいたと思う。自分は必死で頑張っていた。同じポジションやったけど最後まで追いつかんかったな。
後でわかることになるがこの言葉は中国の孔子の言葉で、
才あるものは努力するものに勝てず 
努力するものは楽しむものに勝てず

夢中になって楽しむことが何より己を成長させる。これが最強ということ

この言葉を教えてくれた友人が初めて聞いたのはゲイバーのママかららしい。

2つ目は、「今日必ず親に電話をして、引退することを報告し、ありがとうと挨拶をすること」
これは大学最後の試合の後、ベンチ裏のロッカーに集まり、キャプテンがこの言葉を言ってくれた。
これには深い意味がある。
大学を卒業してプロ、社会人で野球を続ける選手は限られる。しかし共通して大学野球は学生野球の最後であり、これまで間違いなく親からお金を工面してもらい、支援してもらい、見守ってもらい、与えられてきた。どれだけすごいプロ野球選手もこれだけは同じ。その先野球をやるにも学生ではなく、自分でお金を稼ぐ一社会人となる。
これは「最後の主将命令」とも言っていた。
今が感謝を伝えるタイミング。いや今しかない。
寮に帰りすぐさま実家に電話、おかんが電話に出るやいなや(as soon as)
"今まで野球をさしてもらってありがとう。これからは自立します。" 
素直にお礼が言えた。 
(そう言ったものの留年してしまい、1年余分に学費を払わしてしまう。)

この時のミーティングを思い出すといまだに涙がじわっとくる。
そしてこの言葉を聞かなければ今も余計なプライドがあったかもしれない。
沢山の後輩たちも一緒に泣いていた。
それがまた嬉しく泣いてしまう。

今でもその言葉は脳裏に残っていて、素晴らしいキャプテンに出会えたと思っている。誇りにも思うし、自分の人生において自慢ができることは間違いない。

この2つの言葉は本当に今でも影響受けている。

とまあ、そんな感じで長々と書いてしまった。

結局のところ、
自分は楽しめていたのか。
感謝があったのか。
そう振り返ると足りてるようで少し欠けていたのかもしれない。
それに伴い実力の差も比例していたのではないやろか。

そんなわけで

大正ボーイズの選手には感謝野球を楽しむことをぜひ本気でやってほしいと思う。

次回からは選手やチームの紹介の場になればと思う。

このような支離滅裂な文章を最後まで読んでいただいた方々へ感謝。

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