メモニ


ここまで、対象との対面的な関係について述べてきたが、この関係性は決して自らと対象との間にのみ限定されない。対象同士が関係することによっても、当然メモ一において既述の、変化を含んだ一種の四次元的な関係性はみることが出来る。つまり、対面した対象に働きかけることが、自らとその対象に関係する他の全てとの関係性にも影響を及ぼすことになる。これは余りにも当然の事だが、関係性のネットワークをみようとするならば、図的に三次元的な、また時間の経過を含有して常に変化し続けている四次元的となった関係性の網目が想像できるだろう。そこでは、わたし、と我々が呼んでいるものも対象も同じように、網目におけるノード、媒介なのだ。(ここでは四次元的となった関係性の網目と表現したが、本来的には波及の如く、波であろう)
このようにイマジンの結果想像される抽象的概念を四次元的などと表現したが、私はあくまでもこの段階は四次元(的)だが三次元であると考えている。例えメモ一で述べた四次元的関係性も、それをただ捉えるだけでは意味がない。無意識から自明へと浮上させ、次は実践していくことでリアルタイムを生きる新たな身体が得られる。それがつまり、"四次元的だが三次元" から四次元へと向かう一つの手段であろう。

三次元とは、縦×横×奥行きの世界だとか、物質的世界だとか呼ばれ、まあ、通常想像される五感によって認知されている世界であるが、この三次元とは、四次元の切断面であると私は考える。
上妻氏が「制作へ」で述べている事にかなり近いが、五感において、それぞれの感覚が認識されるのは経験の事後である。そして我々の認識にはシナプスが反応している僅かな時間の幅があり、その前後には事後的に認識される感覚の世界のようなものは存在しない。昨年(2018年)にオーストラリア国立大学から、「我々の認識する世界は、それ(認識される)まで存在していない」という発表が学術誌Natureに掲載されたそうだが、これは我々の感覚によって認識された世界観(=三次元)が上記のように幅を持っているということの表れであると私は考える。つまり、その都度認識される世界はそのシナプスの発火の間だけ我々にとって存在し、その連続がパラパラ漫画のような形になって成立している。ページとページの間は存在しない。それらの間を補完し繋げているのは我々(脳)自身なのである。
よって我々のいう三次元的世界とは、我々の知覚方法によってパラパラ漫画のようにデフォルメされた一つのコマで、それが連続することで "四次元的" にみえているというわけだ。
話を戻そう。ではそれをふまえて、四次元と思われるているものは一体何なのだろうか。
というわけで、少し前の話にこの例えを代入してみよう。
「これは、四次元の切断面であると〜」
ということは、パラパラ漫画のたとえでいえば、我々の知覚によって無数のページに切り分けられるその一ページ一ページが三次元なのであり、切り分けられている何かが四次元、あるいはそのまま何かなのである。
そしてまた一つ、知覚という切断だが、(これは先も少し述べたが)必ず事後的に行われる。試してみてほしい。経験を経験すると同時に知覚することがあなたは出来るだろうか?おそらく無理なのだが、先程も述べたように知覚には時間の幅(シナプスの発火のくだり)がある為に経験しながらそれを知覚することはできない。少なくとも必ず反応する秒数分だけは遅れるはずだ。だがしかし、我々は経験を感じている。五感などにわけて分析したり再体験を試みたり、或いは言語化をしなくとも、経験しながら得ている 「あの言い表せないなんともいえない謎の感覚」はあるのだ。私は、これが四次元なのだと考えている。いかんせん、既述の通りその分析は恐らく不可能に近いので明瞭には語り得ないのではあるが。
なので曖昧だが、現時点でのヒントとなりそうな形式をいくつか書き出してみる。もしかすると私の言いたいことが少し共有出来るかも知れない。

意識↔無意識
覚醒↔夢中
そこ↔ここ 或いは ここ↔そこ
三次↔四次?
今の↔今
アクター↔キャラクター

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