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文通(改訂版)

まえがき  こんな事を、すべて書いた後で前書きで書くのもセコいのだが、スラスラと書いていたら長くなってしまった。文字数からすると、所謂論文といわれるものの五分の一もないくらいのボリュームだろうが、もはや原稿にして10ページくらいはあるかもしれない。しかし、後にも述べるが、この長文は、きみのひらかれた態度に感応してか、こちらもひらいた態度でスラスラと、一種隠すところのないものになっていると思う。 まあ、あまり前置きを長くして気負わせてしまうのも疲れるだろうから、ここらへんまでに

    • 雑感

      例えば、自転車に乗れるようになるには "自転車の乗り方" をマスター≒理解していなければなりません。しかし、自転車を正常に運行させる為には、グリップの持ち方、体の力の入れ方、バランスのとり方、ペダルの踏み方、自転車の形状、地面の形状、はたまた自分の身体の形状、、、と挙げてもキリがない、無数の要素を同時に運用する必要があります。自転車を運転しながらこれらのことを逐一仔細に "理解" するのは不可能なように思えます。がしかし、我々はこれらの事を意識せずとも自転車に乗れているのでは

      • 図説

         かつて高校生の時、メモ書きに「自省出来ないやつは自覚が出来ない。そしてそれに加えて自制も出来ない奴が多い。彼らは自分の手がいかに汚れていようがそれを理解出来ない。なのにベタベタと勝手に追い回して触ってくる。ヘドが出る。」などと書いたのをよく覚えている。 これは未だに真理だと思う。当然、全てを自覚する事は不可能だろうが、自覚が出来る/出来ないというのは人となりをかなり左右する。自覚出来ていなくても自制出来る人間は全然良いが、まったく自制もできない奴は果てしなく醜い。と個人的に

        • むめい

          気付くと電話をしていた。誰と話していたのか。 唐突に、ほとんど付き合いもなかった高校時代の同級生の男に自宅の高級マンションに招待された。表面、成績もよく、部活動でも真面目に活躍していたが、此方は勝手に、内面は非常にチャラそうだという印象を受けていた。 黙っていたら、ほとんど一方的に会話は終了し、断るべくもないので早急に向かった。 着いてみると、中々に高級な住宅であった。床は石張り、玄関は曖昧でリビングへの段差はなく、スニーカーや革靴、果てはかなり高さのあるヒールやパンプスまで

        • 固定された記事

        文通(改訂版)

          2時21分のワルツ。飛び交うように跳ねる水滴。照らすはそらからの光。あたたかく包み込む部屋。映る反射に集う虫の影。

          2時21分のワルツ。飛び交うように跳ねる水滴。照らすはそらからの光。あたたかく包み込む部屋。映る反射に集う虫の影。

          文通(付録)

          付録 『山内得立によれば、この世界はさまざまな「差異」に満ちている。彼はその差異を、対立や矛盾ではなく、どこまでも差異としてとらえる立場をとろうとする。彼のイメージする現象学は、世界を、「差異」の相のもとに眺める理論的態度を要請する考え方である。世界に存在する事物Aとそれ以外のものの関係を、仮にAと非A(A')として見れば、非AとはAではないもの、Aのあり方を有しないものとなるから、両者はたがいに対立する。対立は、そのゆきつく先に両立不可能な関係、「矛盾」を想定する。AとA以

          文通(付録)

          雑記

          二項を経由せずに中間に在る。いや、逆だ。その間、非、と呼ばれるところ、中間から有と無、二項が分立する、させているのだ。 これは認識の形式に類似している。経験から認識され、五感として分化される形式と、非である狭間からロゴス的断定によって項に分化される形式の類似。これもまた、認識される前、という点で、非時間的、また同時的である。

          文通

           "思考の海" と俺は呼んでいた。考えるようにして首をすくめ下を見れば、仄暗く、未知の世界がまるで無限に広がっているようだったから。そこは少し怖くもあり、しかしどこまでも潜って泳いでいくのがあまりに気持ちよくて、誰にも邪魔されたくない、そんな場所だった。 俺の場合、誰かの呼びかけや、バイオリズムの気まぐれでたまに水面から顔を出す。そうしてしばらくは水上か、島か、わからぬが、その場を楽しむ。しかし、すぐに厭になって、あの孤独の海の快感に戻りたくなる。面は取り繕える。その程度の事

          ところで

          善と悪の間の無限のグラデーションは各人の切り方にかかっていて、まあつまりそれだけ無数にあるわけだからグラデーションと言ったのだが、それらは全て狭間であって、中間であって、その善悪どちらでもない。それが善悪を与えられるのは何らかの絶対的視点に基づく相対性があるときだろう。そして、視点=切り方、だからそれは無数にあって事象的なグラデーションであり、その無数の中で同じ切り方は出来ないから、「違うのは当たり前だよね〜」「絶対性ってないよね〜」。 しかし、同じ切り方は出来ないとは言っ

          ところで

          メモ四

          四 ところで、例えばこれまで述べてきたような事が自らの内でも明らかになったとして、何か実生活のうちで変化せざるを得ない事があるだろうか。ただ「ああ、世界とは実はこういうものなのかも知れない。」となっても生きる上で何も得るものが無いとなれば、確かに意味がないかもしれない。しかし、一種メタ的な視点を得ることで或いはシミュラークル的なその構造を自覚的に把握する事で、①で述べたようなそこにある四次元的な関係性の内で、閉じたフィクションからの開放へ向かうことが出来る。(特定のフィクショ

          メモ三

          三 ここまで述べてきた私見を少しまとめる ・我々の知覚には時間の幅がある ・我々の知覚は時間の幅により常にリアルタイムから少し遅れている ・我々は知覚することによって "何か" を切断しておりその結果知覚認識しているのが三次元である ・三次元よりも "何か" は今である 突然で申し訳ないが、準備は出来たと思うのでここで飛躍しようと思う。 四次元(いや、**)は、常に同時である。私はこう思う。 パラパラ漫画の例えを思い出してほしい。何かを切った結果の産物として三次元がまる

          メモ三

          メモニ

          ニ ここまで、対象との対面的な関係について述べてきたが、この関係性は決して自らと対象との間にのみ限定されない。対象同士が関係することによっても、当然メモ一において既述の、変化を含んだ一種の四次元的な関係性はみることが出来る。つまり、対面した対象に働きかけることが、自らとその対象に関係する他の全てとの関係性にも影響を及ぼすことになる。これは余りにも当然の事だが、関係性のネットワークをみようとするならば、図的に三次元的な、また時間の経過を含有して常に変化し続けている四次元的となっ

          メモ一

          一 知ることによって、何が変わるだろうか。 例えば普段入っている湯船のなかに無数の菌がいると知って、その前と後とで何が変わるだろうか。 大抵人は、何か気持ちの悪い感じがするだろうし、人によっては入れなくなるということすらあるかもしれない。そのように、知った人は知る前後で変化するのだが、しかし、知ったところで湯船は特に劇的に変わったりしない。滅菌でもしない限りその前と同じように時と共に汚れは増減するだろう。 つまり、知った人の方が「知る」事によって影響され変わっているのだ。そし

          メモ一

          メモ〇

          〇 パースペクティヴの喪失に魅かれてやまない。僕はよく、僕という視点に魅かれる。例えば演技をしている時も、まるでデュシャンの例で言うチェスの相手、またはエルクと狩人の関係性のような在り方をする事も確かにあるのだが、その関係性自体を端から見る、いわば第三者、傍観者としての僕の視点にどうしてもいつも魅かれている。 視点に絶対性などなく、フィクションの無数の乱立であると僕もずっと思っている。しかし、僕が僕と称するように、その僕の視点というものは、僕にとって何か特別性を持っているよう