メモ〇


パースペクティヴの喪失に魅かれてやまない。僕はよく、僕という視点に魅かれる。例えば演技をしている時も、まるでデュシャンの例で言うチェスの相手、またはエルクと狩人の関係性のような在り方をする事も確かにあるのだが、その関係性自体を端から見る、いわば第三者、傍観者としての僕の視点にどうしてもいつも魅かれている。
視点に絶対性などなく、フィクションの無数の乱立であると僕もずっと思っている。しかし、僕が僕と称するように、その僕の視点というものは、僕にとって何か特別性を持っているように感じられるーー魅かれるのだ。
既述のように、その視点も無数のフィクションの一つにすぎない。しかし、唯一、僕、と思われているものにとって失う事の出来る視点、それも唯一その僕が都度フィクションをつくりだせる視点だからこそ、その視点を失う事の魅力といったらない。その視点を失うとなれば、無数のフィクションの一ではなくなり、しかし無数のフィクションそれ自体ともなり得る、しかし「それ」として語り得ることもなくなる。「それ」ではないが、「それ」でないわけでもない。

ーーフィクションをうしなう。

生き死にというーーそれも二項性によるフィクションだと思うがーー区切りによって世界と呼ばれるものの内情が変わる訳ではないと僕は思っているが、いずれその時が来るとわかっていても色々な想像を巡らしながら楽しみにせずにはいられない子供の頃の遠足のように、その視点の喪失が導く無限の予感を想像しながら、誘惑のただ中で積極的に死を待つ。



ーー断定しないということ、評定しないということ、それにより[カオス↔多]を一に抑圧し続ける事を避け、そこから[関係性↔性質]を取り出す。しかし、そのように取り出すとき一時的に多は一となる。そしてまたそれは多の一となり多へと還る。多と一、一と多、そのグラデーションを往還する。

#メモ
#遺稿

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