文通

 "思考の海" と俺は呼んでいた。考えるようにして首をすくめ下を見れば、仄暗く、未知の世界がまるで無限に広がっているようだったから。そこは少し怖くもあり、しかしどこまでも潜って泳いでいくのがあまりに気持ちよくて、誰にも邪魔されたくない、そんな場所だった。
俺の場合、誰かの呼びかけや、バイオリズムの気まぐれでたまに水面から顔を出す。そうしてしばらくは水上か、島か、わからぬが、その場を楽しむ。しかし、すぐに厭になって、あの孤独の海の快感に戻りたくなる。面は取り繕える。その程度の事は上手くできるくらい社会的な生活はしてきていた。その長続きしない取り繕いが、大抵は身体的にガタが来て、すぐに出来なくなる。こうなれば、キェルケゴールがどこかで言っていた気がするが、独りになるしかない。その孤独を個人的に知る者が誰かあれば、大洋にぽつねんと浮かぶ孤島の如く、その人は孤独の快楽の疲れが安らぐ場になる。しかし、これらを安らげる場が無いとなればやがては大洋の只中、泳ぐのを中断せねばならぬだろう。無限に泳ぐことはできない。その時、絶望に突き当たっていなければ、もしくは絶望の場にいなければパニックになるだろう。そして心から絶望するならばおそらくやがて死に至るだろう。
その、ふとした静的な時、泳ぎを中断した時、動的な全てが離れていく。思考する対象全てすらが遠くなる。四肢も顔も何もかも動かすことすら億劫で、離れていくそれら全てをただみるのみ。そこには、自分すら遠くにみえているようだ。ある種のメタ的視点(すまぬが適切な訳語がわからなぬ、調べてみてくれ)をその時得る。実はこれが啓蒙の第一歩だ。
こういうところにきて(私的抽象化をしたが)死をどう超越するかあるいは扱うかが、西洋哲学でいうニーチェやキェルケゴール、ショーペンハウアーという人達の哲学なのだが、実はかつて俺もずっといたその仄暗い海は、広すぎて表現が思いつかない程広い宇宙のうちの僅かなスペースに過ぎない。(そして静的には点、動的には波なのだと個人的には考えている。)
哲人たちの間ではもう議論し尽くされてきていてだいぶ明らかだと思うが、対立項思考は、無限後退を生み、諦観や絶望の場に人を留まらせる。だがその思考形式すら、宇宙が海を包摂(安易な表現かもしれないが)するが如く、とある考え方に内包される。それが、"中庸" の考え方だ。
例えば以下のような逸話がある。

『フランスの哲学者サルトルは、ある時一人の青年に次のような質問をされた。
青年には老いた母親がいる。一人だけの兄は対ドイツ戦争に参加して戦死しており、自分のほかに母親の面倒をみることのできる者はいない。しかし、彼は兄のためにドイツに復讐したいと願っている。「自分は母親のもとに留まるべきか。それとも、自由フランス軍に身を投じてナチス・ドイツと戦うべきか。」これは、典型的なジレンマの例である。サルトルはどう答えたのか。
「君は自由だ。選びたまえ、創りたまえ。」これが、実存主義(哲学の一派)の立場をうちだしたとされる有名な答えである。つまり、同等にもっともらしい二つの考えに有列が認められない状況では、いずれを選ぶかの「正解」は存在しない。
(中略)ここには、基盤を異にする二つの道徳に由来する二つの命令、「母親に孝養すべし」「レジスタンスに参加すべし」が、青年にとって等しい重さを持つ行為の可能性として現れている。だか、どちらを選ぶべきかを命じることのできる上位の原理は存在しない。かといって、何も選ばないという選択紙もありえない。彼の問いかけに対して、サルトルは「選びたまえ、創りたまえ」と返答することによって、この状況を確認するように要求したのみである。(中略)答えがない答えである、とも言える。(中略)だが、とある別の観点に立ったとき、まったく別の見方が成り立つ。サルトルは、Aかそれとも非Aか、という二者択一(前述の対立項的思考)に対して、中間に立つ道をしめしたのだ、と。』

私感だが、人はよく、是非にこだわる。選択に迫られたとき、白黒つけたがるのだ。どちらが良い選択なのか。それは完全にわかることはまずない。物理学(量子力学)的にいっても、事象は観測されてやっと確率は収束し、結果がわかる。つまり科学的説明としても、やってみないとわからない。(だがほっといても確率は収束する。)ところが肯否どちらかに寄りたがる。保留するのが不安だからだ。というのも、例のサルトルに質問した青年のように、それらの二項しか見えていないからだ。決して、二項しかないということはない。人もものも含めた無数の "それ" らは、様々なグルーピングはされるが、それぞれ固有のデバイス(人間からすると身体や物体)を見かけ上持ち、あらゆるものと固有の関わり方をしていて、同一の関係性のネットワークを持つものは存在しない。故に、是非の二極に両断することは本来出来ず(だからその間で苦しむ者もいる)、その無数の "それ" 固有の価値観があるはずであり、それこそは、是非の二極の中間の無数の地点のどこかなのだろう。決して、世にあふれる二項論法に惑わされる必要はないのた。
そも、善悪や是非など、時間とともに変わる。しかし、その事象自体は自覚的には別に変わらない。時間的にはそのように両立せずとも、事象空間的(この空間、そして関係性のネットワークはいつかまたの機会に。。)には両立する、いや、よくよく考えれば当たり前なのだが、両立し(また、よりかかり合っ)ているのだ。だからジレンマや矛盾に苦しむ必要はない。そこに含まれる二項は既に両立しているのだから。二項対立において片方の否定は双方の消滅を意味する。より合っているのだから(これもまた後の機会に。。)。

「我々は自由だ。選ぼう。そして創ろう。」


途中から君で言う自分語と哲学用語の入り混じった、少し難解な文になってしまい、さらには流石に全て説明しようとすると何万文字もかかりそうだったので少し論が飛躍したが、とにかく、二項のトリックに視界を奪われず中庸を忘れぬ事だと思う。その肯と否の間の無数の点のどこかに、それぞれなりの表現があると、俺は考えている。繰り返しだが、正に「我々は自由だ。選ぼう。そして創ろう。」ということだ。


追伸
上述したように、昔から思考の海を独り気ままに、考える快楽に耽りながら泳いでいたが、やはりずっと憂鬱で、10年以上、憂鬱と少しマシとを行き来しているような状態で、実際の未遂もあったが、ほぼ毎年、何度も死のうと思ったりするような様だった。ここ2年ほどマシだったのだけれど、どうもこの夏に来て身体にガタが来て、そこからまた鬱が再発した。しかし思考の海に独り耽り、という訳ではないので5割くらい(笑)は普段通りで、東京でも相変わらず週3くらいでは働いている。しかし、改めて、手紙というのは、スマホやPCとかのSNSやニュース等の速いインターネットと比して遅いインターネット(宇野常寛氏曰く)の一種であるからなのか、心にゆとりの持てる、また不思議な冷静な高揚感を得られるものだなと実感した。予想以上に、文通とは良いものだ。返信の待ち時間もなかなか悪くない。いくら長文になっても一向に構わない。文に根拠など要らない。じっくりと自由に創文してください。

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