メモ四


ところで、例えばこれまで述べてきたような事が自らの内でも明らかになったとして、何か実生活のうちで変化せざるを得ない事があるだろうか。ただ「ああ、世界とは実はこういうものなのかも知れない。」となっても生きる上で何も得るものが無いとなれば、確かに意味がないかもしれない。しかし、一種メタ的な視点を得ることで或いはシミュラークル的なその構造を自覚的に把握する事で、①で述べたようなそこにある四次元的な関係性の内で、閉じたフィクションからの開放へ向かうことが出来る。(特定のフィクションに閉じこもることの悲惨さはあえて語るまでもあるまい。)
実際にそのように生きるなら、どんなふうだろう。それを私なりに考えてみた。
まず、ヒントになるものとして、先に述べた同時の場が挙げられる。経験をそれと同時に知覚することは不可能だと述べたが、また、その同時の場こそ四次元ではないかとも述べた。そしてその四次元はパラパラ漫画のところで述べた切断される何かでもある。
よって同時の場=四次元?=切断される何かと書き出すことができる。では同時の場とは何だろうか。これが、②の最後に列挙したいくつかの形式と接続する。
例えば夢中。夢中になっているとき、夢中で周囲の出来事に気が付かなかったなどと言うことがあるが、まさにそのように経験を集中して感じている。だから、その夢中の時のことを後から分析しようとしても、五感として分断された瞬間に夢中という言葉がしっくり来なくなる。この、分析や五感としての言葉を伴う抽出はある種冷静な、覚醒時に行われる。そして夢中の間は、五感など各感覚として分かれる前の、また言葉としてあらわされる前の、また上妻的には制作的空間にいるということなのだ。これは他の対比の形式にも同じように当てはまる。
これについても、上妻氏の述べる制作的空間がとてもしっくりくるので著書の『制作へ』を参考にしていただきたいと思う。とにかく私にとってあの本は(比喩的な意味で)バイブルとすら言えるほどのものなのである。

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