哲学的な思考の備忘録 その八 言語批判続き

もし翻訳することで意味が、解釈が変わるとすれば、
そもそも同じ言語内で、同じ社会、文化の中で話されることが、そのまま通じているのか、理解されうるのか?という疑問が浮かんできます。

もちろん私がこうやって書いている文章は、少なからず言語論理によって書いているものであって、誰かが(少なくとも私が)理解しうる文章を書いているとは言えます。
まったく誰にも理解できない文章を書いているとなればただの〇チガイと言われるだけです。

普通に会話しますし、私が話すことは相手に伝わると考え、また相手の話すことを理解していると思い、会話というものは成立していて社会というものがおくられています。

しかし、以前書いたように言語が人間にとってただの道具であり、トンカチのようなもので、
トンカチはトンカチとして役に立つがノコギリにもカンナにもならない道具だと考えるとどうでしょう?

自分の右手は他人の右手とは違います。
自分の右手はある制限内、関節や筋肉量、長さ、修練度によって可動範囲が決まっています。

他人が右手で非常に細かいことができたり、右手が意のままに動き役に立つかもしれませんが、自分と全く同じという事はありません。
つまり自分の右手というトンカチは、
ほぼ他人と同じシェイプをしているにも関わらず、
また自分と他人の右手は同じであるという前提で考えられ存在しているのにも関わらず、
実際のところは他人と違う形をしたトンカチなわけです。

AさんとBさんは同じに見える、しかし実は全く違うトンカチを持つために、そのトンカチを使ってできる事、することというのは違った事になります。

トンカチが人によってある程度同じであっても、全く同じ使い方がされることがないと考えると、実は全く同じ形をしていないと考えると、

言語というものも人によって形が違い、使われ方が違うのではないか

という風に思うのは自然なことだと思います。

外山滋比古氏が「思考の整理学」という本で誰かの論を紹介していましたが、

「ある絵やある文章を見たり、読んだりしたとき、本人の書いた本来の意味ではなく、100人いればその100通りの解釈が行われる」

というようなことを紹介されていました。


例えばですが別の人間が同じ言葉を言ったとき、全く同じ意味になるでしょうか?あるいは同じ風に解釈できるでしょうか?

10代の若い人が、「人生大変だね」というのと
70代の年寄りが、「人生大変だね」というのは
全く同じでしょうか?

富士山を登ったことのない人が「富士山は外から見るものだよ」というのと
富士山を登ったことのある人が「富士山は外から見るものだよ」というのは
全く同じでしょうか?

経験や年齢や性別や文化、あらゆるものがその人にかかわっているものが、その言葉にある意味を持たせるのであって、人によって意味理解が違うというのは全く普通の事であって、

一般に言語がすべての人に同じように理解されると思われるという事は、
その本人にとって正しいと思われることなどというものは、
あくまでその本人にとってのみ正しいという事であって、
全ての人が思考というトンカチを持つと思い、また同じ使われ方をすると思っているそのものは、

「全くその人に因っている」

としか言う事が出来ない。

自分という存在が、自分によってしか知覚、経験できないという事によって作り上げられているという事によって、


他人との共通理解として使われるために、進んできたと思われる言語というものが、
現実世界において問題なく円滑に使われていると思われる言語というものが、

実際のところはそうでもない、ただの道具の一つでしかないという風に解釈するべきである、と言えます。

なので、私の書いている文章が、
他人にとって全く経験外であれば理解不能であるというのは普通の事であって、
また逆に私にとって他人が一所懸命に話していることが全く理解できない、という事は多くあり得ることです。


前回の哲学批判においても書いていますが根底にはこの「言語批判」というものがあり、言語がそうであるがゆえに、言語によって語られる哲学や学問というのは、

あくまである条件下においてそうであると言えるのであって、すべての条件においては当てはまらないという事です。

なので言語に縛られている限り、この肉体が知覚の源泉で、それ以上の事を語るというのは不可能であり、

語れないというのは否定的な諦めではなく、
それを理解せずしては延々と問答してしまう事を知り、
肯定的な真理として認めて、
そこから始めるというのが、
これからの思考や行動といったものにとって、真に理解すべきことではないでしょうか。

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