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「かみ」も救ひの糸こそ垂らしつれ、さは掴ませがたく工夫の凝らしたまふぞ~完全版・書評『死なないノウハウ』雨宮 処凛~

この国には、いわゆる弱者を救済するための社会保障制度というものがある。

ただ、近代国家というのはどこも「官僚機構」というからくりによって運営されているので、その制度を利用するには一定の「手続き」が必要になってくる。

しかし、この手続きというのは国家機構にとっては必要不可欠なものだが、その一方でその制度を利用したい弱者にとっては一定の障壁にもなっている。

分かりづらいし、煩雑だし、なにより不親切なのだ。

本書によると、貧困問題の社会活動で著名な湯浅誠氏(年越し派遣村の村長としても有名である)は、この状況を次のように表現しているという。

それは、「メニューを見せてくれないレストラン」のようなものだと。

入店して席についても、それがあることは一切教えてくれないし、その上「正しい手順」で「正確に」注文しないと、絶対に提供をしてくれないレストラン。

普通の店なら潰れて当然だろうが、社会保障の現場では決してそうならないのである。
なぜなら、国や自治体は営利企業ではないから。

むしろ、そのメニューがなるべく出ない方が、人気がない方が、店にとっては「損失」が少ないのだ。
だから全く逆のインセンティブが働いてしまっているのが現状である。

そんなわけだから、今役場の窓口にはいわゆる「追い返しおじさん・おばさん」のような、必要悪から生まれてしまった「非情の獄卒」がいて、せっかく出向いても容易に追い返されてしまう現実があるという。

どうやら警察署などでも似たような状況はあるらしく、聞いていて非常に不安になってくる。

たしかに、国や各自治体もリソースそのものは限られているから、すべての人を救えないというのは分からないでもない。
しかし、これではあまりにも本末転倒ではないか。

弱者救済の社会保障制度を利用するために、何らかの「競争ないし選抜」が行われているも同然なのである。

たとえ要件を満たしていても、関門をくぐり抜けて保障まで辿り着けるのは弱者の中の弱(?)者あって、それはもはやある種の「強者」ではないだろうか。
しかも、その基準となる尺度そのものが良く分からない。

弱者を救うための「エサ」は撒かれるのだが、それにありつけるのは他者を押しのけ、食らいつくことのできる知恵とガッツのある者だけなのである。

でも、そこでも排除されてしまうのが、本当の弱者というものではないだろうか。

だからこそ、本書は書かれたのだろう。
そもそも作者の雨宮氏は、この日本が厚かましくも社会全体の仕組みとして「弱者を徹底的に搾り上げる」ことに舵を切った時、真っ先にその対象にされた世代である。
いわゆる「超氷河期世代」だ。

本書によれば、この決定は95年に日経連が出した報告書にしっかりと記載されているという。

だから、本書は2~30年前の自分自身に向けて書かれた本でもあるのだろう。
この本があればあなたは助かるよ、と。

とはいえ、本書を読めば本当にそれで「死なない」とまで言えるのかは分からない。
おそらく、そんな夢のような都合のいい本は存在しない。

それでも、こうした基本的な情報を知らないことには何も始まらないと思われる。

それは、たとえば『孫子』を読んだからといってすぐに戦争に勝利できるわけではないのと同じことである。
まずは、最低限の知識として知っておくべきことなのだ。

ときに日経平均が過去最高値を付けた、更新したと大騒ぎしている昨今だが、トリクルダウン=上層からのおこぼれが極端に少なくなったこの日本である。
株価の上昇から恩恵を得られる人は、あまり多くはあるまい。

インフレは続くだろうが、それに伴って賃上げが追随する人は一部に限られるだろう。
今後も、厳しい状況は続くことが予想される。

これは、バブル経済が崩壊した後、社会の上層が下層からより効率的に搾り取ることで、自分たちの豊かさだけは確実に維持しようと生み出した仕組みが、今もなお続いているからでもある。

つまり、作者をはじめとする「超氷河期世代」を搾り取ることで始まったメカニズムが、今もこの国を覆い、歪ませ続けているのだ。

そのことは、給与水準こそ日雇いアルバイト同然なのに、なぜか法律上は「個人事業主」として成果報酬のみを契約先から支給され、うまいこと各種の福利や厚生の対称からは外されているような新業種の多さを見れば一目瞭然である。

具体的にどれとは言わないが。

こうした歪みを解消するには、まずこの世代を本気で救済しないことには始まらない気がするのは、私の気のせいだろうか。
それとも、社会保障制度にすらたどり着けない人達は、それもまた自己責任なのだろうか。

しかし、「自己責任論」で彼らをひたすら追い詰めた先に待っているのは、ある種の自暴自棄である。
たとえば少し以前に我が国の前首相に凶弾を浴びせた行為のような、きわめて倒錯した「特攻」のような。

確実に間違っているし、余りにも短慮な行動と言わざるを得ないが、かといって他に何ができたのというのか。

しかも、あの凶弾によって結果的に、焦点となった某団体は少なからぬ「打撃」を蒙ったのである。
間違った社会の状況に、間違った個人の行動が「衝突」して、その衝撃で社会がほんの少しだけ、おそらくは「正しい」と思われる方向に動いたのだ。

ここから何かを学び取った、いや「学び取ってしまった」人間の数は、そう少なくないように思われる。

それは、この国が今後潜在的に抱えるだろうリスクと、ちょうど同じ数であるだろう。

生かさぬまでも、せめて殺さぬぐらいには手を差し伸べてもらいたいものである。

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