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三木露風「あかとんぼ」に関する考察②

前回①の続きです。

なぜ「トンボ」なのか

なぜトンボなのかと言えば、三木露風が故郷で見たからなのだろうが、ここでは日本において「トンボ」が意味するものについて考えてみる。
トンボは昔「秋津」と呼ばれていた。

日本では古くトンボを秋津(アキツ、アキヅ)と呼び、親しんできた[4]。古くは日本の国土を指して秋津島(あきつしま)とする異名があり[4]、『日本書紀』によれば、山頂から国見をした神武天皇が感嘆をもって「あきつの臀呫(となめ)の如し」(トンボの交尾のよう(な形)だ)と述べたといい、そこから「秋津洲」の名を得たとしている[5]

トンボ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

つまりトンボは日本そのものの象徴でもあるのだ。
また、トンボは「前にしか飛べない」という所から、縁起のいい生き物として戦国武将の装飾にもそのデザインが使われることもあったという。
つまりトンボが指しているのは
昔の日本
前に進み止まらないもの
ということである。

これを踏まえた上で歌詞を一番から追って、その仕掛けを考えていこう

夕やけ小やけの 赤とんぼ  
負われてみたのは いつの日か

三木露風「赤とんぼ」

はじめの部分は「赤い」ものを二つ並べている。
『負われてみたのは』の部分、ここで誰もが幼少期おんぶしてもらったことを思い出すだろうが、一番の時点では、誰におんぶされているのか分からない。つまり伏線である
この詩は童謡でありながらも丁寧に作られているのが分かる。

山の畑の 桑の実を
こかごに摘んだは まぼろしか

三木露風「赤とんぼ」

続いて二番の歌詞、
「桑の実」これも赤いものの一つであり(黒っぽいけど)一番の赤のイメージと重なる。
『まぼろしか』という一番の『いつの日か』よりもさらにおぼろげな表現になっている。

十五で姐やは 嫁にゆき
お里のたよりも たえはてた

三木露風「赤とんぼ」

この詩の最も印象的な部分、三番である。
『十五で姐やは』 
ここで一番の伏線が回収されて、一番の詩は 姐やにおんぶされていた情景だと分かる。また、二番の情景にも「姐や」の姿が補完される。
一、二番の懐かしい情景が思い浮かぶからこそ、『嫁にゆき』の悲しみが深まる。
調べると、三木露風は幼いころに、母親を失っていたという。ならばこの「姐や」はまさに母親代わりの存在であり、そしてこれは露風にとって
二度目の母親の喪失である。
ここでは『たえはてた
という強い表現が使われており悲しみの深さがうかがい知れる。
しかし「姐や」が嫁に行くことは露風にとっては母親の喪失だが、結婚とは女性が新たな母親になる第一歩でもありなんとも複雑な思いになる。

夕やけ小やけの 赤とんぼ
とまっているよ 竿の先

三木露風「赤とんぼ」

哀愁漂う四番である。
『夕やけ小やけの 赤とんぼ』 
これはこの詩唯一のリフレインであり非常に印象的。
そして最後はこれまでほ過去形で書かれていたのが現在形になっている。おそらく四番は年を重ねた露風が過去を振り返っているということなのだろう。
そして先に述べたように「トンボ」は前に進んで止まらないもの。
姐や」との思い出のあのころから「時間」は流れ続けて止まらない。

この二つの止まらないものを重ね合わせている詩は非常に感動的ですばらしい。

③へ続く

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