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三木露風「あかとんぼ」に関する考察③

前回②の続きです。

赤のイメージ

この曲の詩のすべての連に共通するイメージとして赤色のモノが出てくる。

夕焼け小焼けは赤。

あかとんぼは当然赤。

桑の実もこれはラズベリーのような見た目を想像してもらえばいいが赤黒い色をしている。

そして15歳で嫁に入った姐や。多くの女性が15歳ごろ経験すること、姐やが嫁に入ったこと、15歳、嫁入り、女性という所から
初潮」が連想されはしないだろうか。初潮を迎えたからこそ姐やは嫁に入ったのだから。
したがって三番目の詩は全体で赤のイメージを連想させると私は思う。

三番目の詩は露風にとって母親の喪失と姐やの喪失を重ね合わせたものであ
るということだろうが、第三者視点で見れば、ただ姐やが初潮を迎え、母親
となる第一歩を踏み出しただけというものであり、露風の喪失感とは真逆に
むしろ希望を感じさせるものである。

赤のイメージと結婚という女性の成長を表すようなイメージと「たえはて
た」という絶望的な表現を同一の連に込めている所に、

露風のマザーコンプレックスとその滑稽さ、もの悲しさを見ることができる
のではないだろうか。

露風とマザコン

「五歳のとき、幼稚園からうちに帰ったら母が男に連れられ家からいなくなっていた。」

これは露風の幼少期のエピソードであるが、この経験が「あかとんぼ」の詩にもやはり反映されている。

三番は言ってしまえばおてつだいの女の子と別れただけのことであるが、そこに母親のイメージを確かに重ねていることが、このエピソードを知っていれば分かるだろう。

「姐や」が母親になる過程を登っていくことで露風は母親の影を見ていた対象を失っていくというこのすれ違い。ここがこの詩の最も面白く悲しく切ない部分である。

あとがき

高校生が書きなぐった文なので、読みにくいことこの上ないのはかんべんしてもらいたいです。

露風のマザコンエピソードとして、母が90歳くらい?で亡くなったとき(露風70代)母の遺体と一晩添い寝したというものがあるそうです。

この曲はマザーコンプレックスという弱さを表現したからこそ多くの人に受け入れられ愛されるのだと思います。
面白いのがこの詩三番を取っ払って一、ニ、四番だけにするとただ故郷と秋の自然を思ってるだけの詩になるんですよね~
三番があることでほかの連の詩が特別な意味を持ってくる。ほんとに天才的だと思います。

もしここまで読んでくれた方がいるならありがとうございました。こんなに無茶苦茶な書き方なのに。

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