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わだかまり

WBC決勝戦。

松坂大輔さんが当たり前のように発した言葉
「野球少年、野球少女」

瞬間、胸がカッとなって熱くて、苦しくなった。
忘れようと努め、時間をかけ奥深く沈めたはずのものがフツフツと沸き立ちはじめたのを感じたのだ。


私には1歳年下の弟がいる。
当時、幼稚園から帰ると、弟と隣に住む2歳年上のお兄ちゃんと一緒にサッカーや野球をして遊んだ。飽きもせず、それは私がスポーツ少年団でバレーボールを始める小学4年生の頃まで毎日のように続いた。

幼稚園児の私は、何も疑問に思うことなく純粋に、小学生になればスポーツ少年団でサッカーか野球をするつもりでいた。
ほんのちょっとだけサッカーの方が好きだった。
幸せな悩みだったと思う。

母に入団したいと申し出たのは、小学生になってすぐの頃。今でも思い出す。心は浮き立ち、目もキラキラしていただろう。
気が早い私の頭は、プロになりボールを追いかけ、チームメイトと笑い合う自分の姿を想像していた。

だから想像もしていなかった。
入団していない自分の姿を。

「あかん」

あの日の母からの、たった3文字によって私が消えた。

「あれは男の子がするもの」
「これ以上男の子みたいになられたら困る」
「男の子を産んだ覚えはない」

今思うと、これが私の人生の軸となり、初めて直面したジェンダーの大きな壁だったのだ。


心に大きなしこりを残しながらも時は経ち、少しずつ男女の違いも周りの変化とともに理解していった。

休み時間、今までと同じようにサッカーをしていると、先生から母へ連絡がいった。
「いつも男の子と遊んでいます。女の子と一緒に遊ぶように声かけをしましたが、断ってお外に行きました。」
「お声がけありがとうございます。すみません。いつものことですので大丈夫です。」
と母は連絡帳に記入していた。
あれは母なりの、私への歩み寄りだったのだろうと今なら思える。

普段の遊びに関しては、何も口出しをしてこなかった。冒頭の言葉だけなら、頭ごなしに否定し子供を理解しようとしない、酷い母親に見えるかもしれない。でも、それは少し違う。
母にとっては不安だったのだろう。女の子として産んだはずの子が、何一つ女の子らしいことを好まぬことに。さらに、それはずっと続いていくかもしれないことに。
だから、自ら進んでレールを敷くということはしてくれなかったのだと思う。

入団を諦め、同じような毎日を繰り返し小学3年生を迎えた頃。周りの男の子たちから少しずつ、スポーツ少年団の話が聞こえてくるようになった。
最初の申し出から時間も経ったし、母の気持ちも変わっているかもしれない。
しかし、その淡い期待は消え、しこりが少し大きくなった。

だが、あの頃とは少し違ったことがある。
私の反抗期が活発になり始めていたことだ。
「なんで女の子はサッカーしたらあかんの?」
この問いに、母は上手く答えられなかった。
「じゃあ女の子のするものって何?」
「いつになったらサッカーしてもよくなるん?」
とにかく負けないように畳み掛けた。

そして「中学生になったら部活で絶対にサッカ
一する!これは絶対譲れん!」と勢いよく言う私に、諦めモードでようやく母は承諾した。
男女の区別が分かる年頃になっていること、部活動は学校の延長線上であることからサッカーをしてもいいということになった。
お互いに譲歩し合った結果だ。

「それまでに体力面、精神面を鍛えておきたい。」
ごねる私に、唯一許されたスポーツがバレーボールである。

その後、小学4年生から卒団するまでの3年間はバレーボールを頑張った。
バレーボールを好きで始めた子たち、教えてくれる人たち、応援してくれる人たちのことを考えると心苦しくなった。
その度に、自分の夢のためだと言い聞かせた。

小学5年生になった頃、「エース」と呼ばれるポジション"レフト"を少しずつ任されるようになった。

冬のある日、インフルエンザで休んだ私を待っていたのはエースではなく"ライト"。
先輩にポジションを奪われていた。

体調管理も実力のうち。初めて味わう悔しさと、バレーボールをちゃんと好きになっていたことに気付いた瞬間だった。

先輩たちが卒団し、エースは私のもとへと帰ってきた。嬉しくて嬉しくて、とにかく嬉しかった。

キャプテンで先頭に立つというよりは、後ろから皆の背中をそっと支えたいタイプ。そのため副キャプテンをしていたが、キャプテンから嫌われていたため、チームの雰囲気を悪くしてしまっていたかもしれない。

練習は厳しく土日は遠征。
今では大問題になるであろう監督からの暴言暴力もあり、辞めたいと思う時もあった。
だが、自分はエースなのだというプライドと、それ以上に、慕ってくれる後輩たちの存在が支えとなった。

いつの間にか、サッカーのためだけではなくなっていた。今思い返すと、バレーボールは私の青春だ。


4月。入部届には、ずっと焦がれていたサッカ一の文字。
ここに来るまで本当に長い道のりだった。
入部届を提出し、私はようやくスタートラインに立つことができたのだ。

本当は、心が揺らいでいた。
友達や周りからの「続けたら?」という声。
卒団時にもらった色紙に書かれた
「バレーでのプレーは充分できます。このレベルまで出来上がっていれば充分通じます。素晴らしいバレーオーラが出てくる事を期待しています。頑張れ。」の文字。
鬼のような監督から、こんな風に言葉をもらったのは初めてで衝撃を受けた。嬉しかった。
そしてなにより、バレーボールを大好きになっていた。

でも、その揺らぎは静かにとまる。
部活動見学の前日「バレーボールを続けてほしい。お願い。」と言う母からの言葉に、バレーボールも見に行こうと思っていた私から、バレーボールの選択肢は消えた。

文字にしてみると、周りからもらったものとそんなに変わらない。母の気持ちも理解できる。
それでも、なんでそんなことを言うのかと、母に対しては無性に腹が立った。

母の理解をもらえぬまま入部したため私は意固地になり、部活で必要なものは全て自分のお小遣いでやりくりした。
スポーツ用品店には父が連れて行ってくれた。
今まで父のことについては触れてこなかったが、基本的に私のすることに反対はしない父親だった。

2年生1人、1年生3人。
男子に混じる形で入部した女子の人数だ。
きついと聞いていた練習は、バレーボールで鍛えられたおかげか問題なかった。
夏場の10キロランニングも、蒸し風呂体育館で朝から夕方まで過ごすより涼しかった。
自主練の日も参加し、帰ってからもボールに触れた。早く追いつきたかった。

同級生から耳元で「下手くそ死ね」と言われても、「さっさと辞めろ」と言われても平気だった。
いつだって楽しさが勝ったのだ。

だが、どうしても許せず心が蝕まれていく出来事がいくつかあった。

最初の出来事は、初夏の頃。
昼休みに校内放送で顧問に呼び出され、心当たりはないがソワソワしながら向かうと会議室に通された。
「お前のことを2、3年の女子が噂していた。男目当てでサッカー部に入った男好きやって。男子と一緒に帰ったりしてるやろう。お前自身がもっと気をつけなあかんのちゃうか?」
意味不明な説教だった。
「それに、いつも校内掃除が終わった後トイレに行ってるらしいけど、それは用を足してるだけか?」
逆に聞きたい。それ以外に何をするのか。
校内掃除の後は帰りの会がある。帰りの会が終わればすぐに部活へ向かいたいため、このタイミングで必ず行くようにしていた。
「用を足しているだけです。先輩とは家が隣で、方向が同じ部員で固まって帰っているだけです。」
思うことが色々あり混乱した頭では、こう答えることしかできなかった。
私が女子であるせいで、こんなことを言われているのか?それとも私が悪い?考えても答えはでなかった。

初めて迎えた水泳授業の日、私は生理2日目で見学理由と共にハンコを母に押してもらった。
そしてもう一つ、小学生の頃は傷があるとプールには入れなかったので、数日前に自宅の階段で転け脛にかなり酷めの傷があった私は、それも理由欄に記入してもらった。

帰りの会が終わり、部活へと向かおうとしていたら担任から声をかけられた。
顧問が呼んでいるらしい。
職員室を開けると、体育教師と顧問が並びこちらを見ていた。
そして私を確認するなり
「おい!お前、水泳見学したらしいな?理由言えや!」
響き渡った顧問の怒号に、職員室にいた教師たちの顔が一斉に私へと向く。
理由なら体育教師が知っているはず…。

1番の理由は生理であるが、まだ中1の私にとって沢山の教師や生徒がいる中で、生理ですとハキハキ言える心の強さはなかった。
「足の傷が酷いので...」言い終わらないうちに「おい!」と怒鳴り近付いてきたかと思うと「職員室から出ろ!さっさと出ろ!」と何度も胸を突き飛ばし廊下の壁に追い詰められた。
こちらの様子を窺っている体育教師の顔が、顧問の肩越しに見えた。

それから暫くの間、そんな理由で水泳を見学する奴は前代未聞だの、さっさと部活を辞めろだの、同じような事を間髪いれずに怒鳴る。弁明の余地はなく、部活に二度と来るな今すぐ帰れと言われるままに従った。
バレーボール時代にも、言われ慣れた言葉ではある。「辞めろ」「やる気がないなら帰れ」そう言われる度に何度も「参加させてください。お願いします。」と頭を下げて来た。
だがあの時とは全然違う状況に、私は頭を下げることなく無言で帰宅した。

生理ですと言えなかった私が悪いのは認める。
だが、親からハンコをもらい、体育教師に許可をもらい見学をした。
女性の体育教師は、あの時、追い詰められている私を見て何も思わなかったのだろうか。

次の日の朝練の時間、いつも通り学校へ向かい顧問が来るのを待った。私がサッカーを続けるには、頭を下げる以外の選択肢はないのだろうと思った。
「昨日はすみませんでした。練習に参加させてください。」
説教を聞きながら何度も頭を下げ、ようやく許可をもらった。
その日の水泳は、生理の出血の恐怖に怯えながら参加した。


夏の大会が終わり、3年生が引退した。
隣のお兄ちゃんがいたおかげで、3年生たちとは仲良くさせてもらっていた。
2年生たちとの関係も悪くなく、穏やかな人たちばかりで変わらず楽しかった。

特に女子の先輩とは、価値観が似ていて部活以外でも遊ぶ仲になり、同じ1年生の女子2人(AとB)は元々仲が良かったため、バス移動の際も自然と2:2になった。

入部当初は一緒に頑張る仲間だったはずが、夏を過ぎたころから少しずつ変化していった気がする。

私とAは同じクラスで、たまたま日直が一緒になり、部活前に2人で日誌を書いていた。
ガラッと扉が開いた方を見るとBが立っていたため「今日は2人とも日直やから、ごめんやけどちょっと遅くなる!先に行ってていいよ!」と私はいつも通り笑顔を向けた。
だが、Bは無言でこっちへ来るなりAに言う。
「日誌は任せて一緒に部活行こう!」
戸惑いながら連れて行かれていくAの様子を、私は呆然としながら見つめた。

それから少しずつそういうことが増え、その雰囲気は部活中にも支障をきたしはじめた。

顧問がAとBに対する指示を先輩に送り、それをそのまま2人に伝えている先輩の姿を私は見ていた。戻って来た時、指示とは違うことをしていた2人を見た顧問は女子全員を集合させた。
2人は「聞いていない」と言う。先輩は「伝えた」と言う。顧問からお前見てたか?どっちや?と問われたため「伝えているところを見ました。見ていた部員は他にもいます。」と言った。
本当のことだが、嫌な空気が流れる。
すると顧問は大きなため息をつき「女子特有のごたごたを男子サッカー部に持ってくるな!」と怒鳴った。

男女混合を学校が受け入れている以上、ここはただのサッカー部だ。私はただのサッカー部員でいたい。

後輩が入ってきてからも、変わらず女子は女子で集められ怒られた。
遠征中、バス内で騒ぎ度々顧問から注意を受けているのをウトウト目を瞑りながら聞いていた。遠征先に着くと女子だけ並べられ「女子同士なんで注意せんのや!」と怒鳴られた。
別に女子じゃなく、近くの人、またはキャプテン副キャプテンが注意したらいいのでは?連帯責任はあるあるだが、なぜここには女子しか集められていないのか。

思ったことを口に出せれば何か変わっていたのかもしれないが、円滑にサッカーを行うことを考えると何も言えなかった。
勇気がなかった。
だんだん、サッカーをしていても楽しくなくなっていった。

耳元で言われ続ける暴言や負の面には一切気付かず、あなたは楽しそうでいいよねと言う2人、顧問、辞めてしまった先輩、怪我、リハビリ。
色々な事が積もり積もって、心は潰されていった。

昔から低血圧で朝にとにかく弱い私が、嬉しそうに朝練へと向かう姿に、母はすぐ応援モードへ切り替えてくれていた。土日の遠征ではお弁当を作ってくれた。相談にも乗ってくれた。
たとえ母が望まないことでも、やったからには最後までやりきりなさいと言うような母。
その母から「そこまでして続けたいと思える部活なの?」と聞かれた。

振り返れば、入部当初から思っていたものとはかけ離れたものだった。私がサッカーを神聖視しすぎていたのか、それともこの学校のサッカ一部の雰囲気なのか、それは分からない。
サッカーそのものは楽しかったけれど、部活として楽しかったかと聞かれると、楽しくはなかったのかもしれない。
意地で固められた私の心は鈍感で、知らず知らず蝕まれ麻痺し、この時まで気付けなかった。

2年生の夏休み前、私はサッカーをやめた。

サッカーを嫌いになったわけでも、後悔がなかったわけでもない。
それでも、ずっと憧れ、輝いて見えいたものとはかけ離れすぎたそれと向き合うことに、しんどくなってしまった。

夏休み明け、顧問に出会うと「お前、なんでそんなに肌が白いんや?」と嫌味を言われた。
もうサッカーのために頭を下げなくてもよくなった私の心は、笑えるほどに晴れやかだった。

長年の夢は諦め、ものづくりが好きだった私は工業高校へ進んだ。
母は、本当は普通科に行ってほしいけどと言いながらも、工業の方が私には合っていると応援してくれた。嬉しかった。

クラスは女子1人だったが、クラスメイトはとても優しく、先生もクラスの一生徒として接してくれ、中学時代のようなことは1度もなかった。
数少ない女子の友達も大好きだった。
みんなから女子扱いを全く受けなかったわけではない。だが高校でのそれは、優しさや気遣いからくるものだった。

応援してくれる両親、何にも囚われずクラスメイトと楽しく学ぶ日々。
望んでいたものをやっと手にした気がした。


大人になり、母と喧嘩をすることはほとんどなくなった。
テレビに映る、サッカー少女を見た母から「あの時サッカーをさせてあげればよかった。ごめん。」と謝られた。
「いいよ。」と答えたのは本心だ。
今更言わないでよと思う気持ちも少なからずあったが、時代と環境がそうさせた部分が大きかったと今は思えるのだ。

私自身、変える努力をすることができなかった。
言葉でも行動でも、何も主張できなかった。
ただ心の中で憎んだ。
そして意固地になり、母と衝突した。

高校で欲しかったものを手にした頃から、少しずつ可愛いものが好きになり、私服でもスカートを穿くようになった。
性別に一番囚われていたのは私自身で、私が一番女子というものを嫌っていたのかもしれない。


最近、近所のスーパーの掲示板に、男子バレーボールチームや女子野球チームの部員募集の紙が貼られるようになった。
私は何も変えられなかったが、つらい思いや理不尽な思いを乗り越え頑張って来た人たち、そんな人たちを支えてきた人たちによって生み出された結果を見て、私はとても嬉しく思った。


母と一緒にテレビで観戦していたWBC。
どの試合も幼少期のわくわくを思い出させるような、そんな素晴らしい試合だった。
だから余計なのか、世界が注目するあの場で、誰もが知っている松坂さんからの
「野球少年、野球少女」
という言葉は心に落ち、波紋を描き、じんわりと染みた。


甲子園史上初女子ノッカーの存在も、それを支える周りの存在も、温かい拍手も、これからへの希望だ。

歩みは決して速くはないかもしれないが、全世界の少年少女が、何にも囚われず笑い合い、認め合い、夢見ることができるようになっていってほしいと願う。

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