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宮代町初代町長の先見性

 埼玉県宮代町には進修館という建築があり、開館以来とんでもない頻度で利用されてきた。

 その建築の建設成就には、宮代町の初代町長である斎藤甲馬の先見性によるところが多いと町の人は口を揃えて言う。

 斎藤甲馬に会うことは当然もうできず、また町の人にもひとまとまりに何がそんなに凄い人だったのかを説明できる人には今のところお会いできていない。

 そこで、進修館が建てられた当時の時代背景と建築の潮流を見比べながら、斎藤甲馬の考えの先見性の一端についての記述を試みる。

■ポストモダンの建築の時代

 ポスト・モダン建築は、モダニズム建築への批判から提唱された建築のスタイルであり、合理的で機能主義的であった近代モダニズム建築に対し、その反動として現れた装飾性、象徴性、折衷性、過剰性などの復権を目指した建築として広く知られており、日本では、1980年代を中心に流行した。その後、1989年のフランス国会図書館コンペでのドミニク・ペロー案が脚光を浴びたことを機に、建築の潮流はミニマリズムへと移行したとされている。

 ポスト・モダンという呼び方について、建築評論家の松葉一清は、磯崎新との対話で、時代の呼び名をポスト・モダンかポスト・モダニズムかでポスト・モダニズム、どちらにするかという話をし、「ポスト・モダニズム」という呼称は単なる一様式の「狭い」イメージを伴うことから、時代の大きな潮流を指すときにはポスト・モダンの呼称を用いる方が望ましいという見解に至ったと述懐する。(『ポスト・モダンの座標』)

 ポスト・モダンは、近代主義時代に比べて比較にならないほど建築デザインの多様な表現が要求された時代であり、建築家たちは自分達のデザインが「差異」そのものであることを広く知らしめようとした時代であった。

 当時、数多くの「ポスト・モダン建築」が建てられたことから、単なる計画だけでなく、その時代にそうした独創的な建築の需要があったともに、社会がポストモダン建築受容の受け皿になっていた事は想像に難くない。

 建築家の内藤廣が当時の状況をサプライサイド(供給者)からデマンドサイド(消費者)へという表現をしているように、(『平成建築史』)近代主義を支えてきた産業社会の成熟の延長線上に消費社会が位置しており、近代主義的な建築意匠からポスト・モダンへの以降はそうした社会的な変遷に併走していたのである。産業社会において、均質な大量生産品が世に送り出され、人々の福利は向上し、急速に社会が底上げされ、三種の神器をはじめとする消費財が全国的に送り込まれた結果、均質的な製品への消費欲は飽和していった。人々は成熟した産業社会を前段として、今度は隣人とは異なるモノが欲しくなり始めた。

 そこで供給の行き詰まりの打開策として、産業サイドは「差違」を画策せねばならず、白羽の矢が立ったのが「デザイン」だったというわけである。こうした社会では、昭和30年台に大量生産された公団の集合住宅の差異のなさゆえに空き家を大量に抱える羽目に陥るなど、「差異」が要請されることとなった。建築家たちは「一人一思想」を持つことが求められ、建築のデザインもオリジナリティを追求したものが要請されたのである。ゆえにポスト・モダンはありとあらゆる表現が絢爛豪華に立ち並び、同時代の表現の幅が拡散していくことが奨励された時代であったことがわかる。

 70年代に「地方の時代」が叫ばれ始め、80年代中期になってより実の入った施作が全国各地で、実行され始めた。日本において、「中央」よりも「地方」が現代建築家の主要な活躍の場であるのはその時代以前からあったことだが、「地方」が大建築家に庁舎なりの施設の設計を委ねるにあたっては、「中央」に伍するだけの「近代」を「地方」に移植することに主眼が置かれていた。一方で、1980年代の建築家に課せられた役割はそれとは様相を異にしており、「限りなく地方であり続ける地方」のアイデンティティを表現することが求められることとなった。

 進修館の設計にあたって、象設計集団は、宮代町町長の斎藤甲馬から「世界のどこにもないもの」を作って欲しいという要件を受けた。このような文言の設計の依頼を受けたことは、当時の時代背景を考えれば最も時代に合った先駆的な依頼であったと言えるだろうし、斎藤甲馬は時代の流れを深く理解した上でこのような言い回しをしたことが推察されるので、ここに斎藤甲馬の先見性が表れていると言えるのではないだろうか。

参考:
Wikipedia
『平成建築史』内藤廣+日経アーキテクチュア
『ポスト・モダンの座標』松葉一清

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