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明治の先人の傑作「旧伊勢神トンネル」

国道153号。愛知県名古屋市から長野県塩尻市を結ぶこの国道は場所によって大きく印象が変わる。名古屋市内の国道153号線は片道2車線以上ある非常に立派な道路である。しかし、名古屋市を出て、日進市、東郷町、みよし市を通過し、豊田市に入ると異なった表情が見えてくる。豊田市街地を走っている間はごく普通の道路なのだが、豊田市街地を抜け、山地に入ると車線数は片道2車線になる。そして、観光地として知られる足助を抜けると本格的な登り坂とカーブの連続が続く区間に入る。
今回、私が赴いたのはその本格的な登り坂とカーブの連続がある区間である。

1.ヘアピンカーブを抜けた先には

先程も言ったように足助を抜けるとそれまでは滑らかだった登り坂が急にキツイ登り坂になりかつカーブが非常に多くなる。
そのキツイ坂を坂を上り続け、ヘアピンカーブを抜けると見えて来るのが・・・

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1960年に開通した伊勢神(いせがみ)トンネルである。こちらのトンネルは開通から半世紀以上が経過し、一部の界隈には心霊スポットとしても知られているようだ。今回はこちらのトンネルが目的だったわけではなかったので、こちらのトンネルはスルーした。(今この文章を書きながらスルーしてしまったことを後悔している。せっかくだからこちらのトンネルも通ればよかった・・・仁和寺の法師になってしまった)
そう、今回の目的地はこのトンネルが1965年に開通する前に利用されていた「旧伊勢神トンネル」(正式名称:伊世賀美(いせがみ)隧道)なのである。
※隧道と言う名称は古いトンネルに付けられていることが多い。本記事では隧道=トンネルと解釈していただければ問題ない。

2.魅惑の旧トンネル

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隧道の東側の入口付近。隧道はほぼ直線のなので隧道の反対側の出口も見えている。迫石(迫石=トンネルのアーチを構成している部分)が2重巻きになっている。道路トンネルで、迫石が2重巻きになっているものは珍しいらしいが、開通当初から2重巻きであったわけでは無く、後年の補修によって2重巻きになったらしい。
現在では照明が付けられているが、この照明は2018年ごろに新設されたものである。それまで、ごく短い期間を除いて、電灯がつけられたことは無く、隧道内は真っ暗であった。

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伊世賀美隧道の開通は1897年、明治30年のことである。(中日新聞など一部の情報源には1901年開通という情報もある。だが、どちらにせよ明治時代に開通した古いトンネルであることは変わらない)。扁額には右から「伊世賀美」と書かれており、このことからも歴史ある隧道であることが分かる。
このあたりは「伊勢神峠」と呼ばれる峠道である。伊勢神トンネルの近くで営業する「ドライブイン伊勢神」の主人によると、昔は、この場所から伊勢方面に向かって遥拝をしていたのだという。そのことから「伊勢神」という地名になったのだという。ただし、サイトによっては伊勢神宮の遥拝所が山内にあるからこの地名になったという説明がなされており、実際のところは判然としない。だが、「伊勢神宮」が関連していることは間違い無いだろう。また、旧トンネルの漢字は「伊勢神」ではなく「伊世賀美」であり、伊勢神宮とは漢字が異なる。何故、「伊勢神隧道」ではなく「伊世賀美隧道」なのか。こちらの2017年に公開されたブログ記事によれば『「伊勢神」と書くにはおそれ多いということでこの字をあてたという話』があるそうだ。また、公開年不明のこちらのサイトによると「伊世賀美」には『伊世(この世は) 美(うつくしく)賀(よろこぶべし) 』という意味が込められているそうだ。名称の由来がある程度わかったところで隧道の中に入ろう。

3.隧道の中へ

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中に入ると、路面状況が少し悪くなる。一応、隧道内も舗装されているが、所々に砂利が堆積しており、歩くと「ジャリジャリ」という音が周囲に響き渡った。この隧道は当初は煉瓦造となる予定であったが地質などの都合からレンガでは崩落の危険性があったため、花崗岩造になったのだという。
一時期、心ない人たちの手によって、隧道内が落書きで溢れてしまったこともあるそうだが、今日ではそれらの落書きは消され、綺麗な姿に戻っていた。

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花崗岩の壁面。現役トンネルの多くはコンクリートで作られることが多く、花崗岩のトンネルが現役として使われていることは珍しい。石と石の間の隙間はコンクリートで補強されており、しっかりと管理されていることがわかる。

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トンネル内では数回幅が広がったり狭まったりしていた。写真はトンネル内の幅が広がった後に狭まっている場所だ。恐らく幅が広がっている部分は迫石が二重ではなく1重になっているのではないだろうか。つまり隧道開通当時の姿であると思われる。この隧道は狭く、普通車であってもすれ違いは困難だ。だが、開通した当初、ここを通過したのは自動車では無く馬車であった。恐らく、馬車が移動や荷物の運搬に使われていた頃はこの幅でもあまり問題なかったのだろう。

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隧道内は一部コンクリートによる改修が行われていた。隧道は300m程度で徒歩でも5分程度で抜けられるのだが、隧道内を歩いている時、全然出口が近づいてこない感覚に襲われた。

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コンクリート修復部。なんの変哲もないコンクリートだ。(なんの変哲も無いなら載せる必要あるのか?という疑問が湧く人もいるかもしれない。確かに、私やあなたから見ればなんの変哲もないコンクリートかもしれない。しかし、閲覧者の中にはこの写真に写された情報から私やあなたが気がつかなかった「何か」に気がつく人もいるかもしれない。また、今後もこの隧道の姿は改修などによって変化し続けると考えられる。隧道の「今」を記録しておくことは大切である。)

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隧道の出口はもうすぐそこである。

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伊世賀美隧道の東側(稲武側)の出入口。西側の出入口よりも全体的に「暗い」という印象を受けた。


4.動画:伊世賀美隧道

どうでもいいことであるが、私が記事中に自ら撮影・編集した動画を掲載することは今回が初めてだ。見苦しい出来であることは自覚しているが、この動画から隧道の「リアル」な姿を感じ取っていただければ幸いだ。(動画では隧道の雰囲気を壊さないため、私の声は一切入っていない。呼吸音や足音がうるさいのはご愛嬌。とはいえ何も音声がないとそれはそれで寂しいので軽く音楽を挿入している。)
動画はこの記事を補完する内容になっている。記事内では一切触れなかった「心霊スポットとしての伊世賀美隧道」にも少しだけ触れている。関心があれば是非見て欲しい。

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2016年頃から廃墟に関心を寄せる。2018年、実際に廃墟へと趣き、廃墟訪問にハマる。現在はその廃墟がかつてどのように使われていたのか、いつ頃廃墟になったのかを特定することに力を注ぐ。 地域・店舗限定のエナジードリンクを見つけることにもハマっている。自他共に認めるエナドリ中毒者。