目の前にいる相手は誰か

オードリー若林さん著の「ナナメの夕暮れ」は私の大好きな本である。
特に、第2章から始まる「ナナメの殺し方」は定期的に愛読している。
仕事や勉強や人間関係に対する不安が募り、自分を否定したくなるとき、この本は自分を肯定するきっかけを与えてくれる。
そして、ちょうど先ほど、この「ナナメの殺し方」を読んだところである。

最近、自分の話下手ぶりにいちいち落胆していた。
おそらく、先週風邪で寝込んだことで人と会話する機会がなく、喋り方を忘れたのだろう。
誰かと喋りながら、
「つならない喋り方だな」
「自信なさそうに話しているな」
と、自分の発言に毎度ツッコんでいた。
そうなると、誰かと話すのが億劫になる。
しかし、喋らなけばもっと話下手になるという危機感からいつも通り誰かと会話していた。

今日はゼミの先輩とご飯に行き、多少の世間話をしたが、
「面白くしなければ」
「もっと笑わせなければ」
という焦燥感で、発言が空回りしていたように思う。
先輩も少し退屈そうだった。

今朝、私は「自分が一番に楽しめれば、相手もきっと楽しんでくれる」という信念を持って外に出た。
ゼミの先輩に会う心構えである。
しかし、結果、相手は楽しそうだったかというと満点ではないし、自分も充分に楽しめなかった。
最近、こういうことが多い。
その原因に、「どう会話を円滑に進められるか」という命題とそのための手法にばかり、考えが囚われていることが挙げられる。

会話の円滑な進め方を考えたとき、重要なことは相手の発言と、それに対応した自分の気が利く発言であり、相手の存在、もしくは、自分の存在ではない。
言い換えれば、会話を円滑に進めようとしたとき、相手と自分の発言、特に相手の発言からいかに自分が気の利いたことを言えるかが重視され、相手がどう思うか、何を考えているか、どうしたいのかについてはおおよそ無視される。
最近の自分は、この、相手の存在に向き合い、会話することを軽視していたような気がする。

思い返せば、今日会ったゼミの先輩の話に対して、自分はとぼけるかツッコむかの二択であり、より込み入った話には至らなかった。
端的に言えば、相手の発言にどう気の利くコメントをするかばかり考えて、相手の話に興味を持って耳を傾けることを忘れていた気がする。

半年前、自分は誰かとコミュニケーションをすると、これまで知らなかった新しい世界が切り開かれ、自分の好きなことや興味のあることが増えると考えていた。
これは、相手に対して興味を持つところから始まっている。
目の前にいる相手に興味を持つ、尊敬する、好きになる努力をすることは、誰かと生きていくこの世界で重要なことのように感じる。

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