かた

流れゆくままに... 好きなものに囲まれて生活したい

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最近の記事

仕事の目的に立ち返る

何のために働いているのか、ここ数日その目的が狭窄的になっていた気がする。 もともと勤労の動機を、子どもが好きなことを見つける増やし深める手助けをする、子どもの生き辛さを解消する支援をする、子育てに悩む保護者が子育てに幸せを感じられる支援をする、として位置付けていた。 そのために社内の資格を取得することが有効と考えた。 だが最近は、社内の資格を取得することばかり考え、子どもや保護者への根本的な支援動機を見失っていた気がする。 その影響で、将来について考えると本当に資格が取れるの

    • 鼓動する社会と目的へ向かう人間

      鼓動する社会、新幹線の車窓から見える夜の景色は暗闇の中で光る無数の照明だ。 人々が暮らすことを暗示している。 人の数だけ生活があり、思考が働き、感情が渦巻いている。 不可抗力で繰り返す日々を生きている。 楽しみながらかもしれない、苦しみながらかもしれない。 多様な人々の暮らしを、私は愛おしく思う。 隣の座席では、30代過ぎの夫婦がビールを片手に駅弁を頬張る。 足元には黄色い大きなキャリーケースが横たわっている。 きっと、この三連休で旅行を楽しんでいるのだろう。 休息のひと時

      • 誰のための療育、誰のための教育。 最近の自分は支援者としてこうしたい、という支援者側の視点で療育現場と教育現場を見ていたけど、児童、生徒側から見た療育、教育はどんな風に見えているんだろう。 かつて授業を受けていた自分は、どんな授業を面白いって思ってたのかな

        • 療育事業所間での混乱

          児童の発達を促すことには変わりない。 しかし、療育事業所によって、その目的を達成する手段があまりにも違い過ぎる。 複数の療育事業所に通所している児童とその保護者は、その乖離に混乱するのではないだろうか。 まず、そもそも児童の発達を促すという目的を据えたとき、どのような発達を促しているか現場で見ていると、その時点で乖離が始まっているように思える。 私が数年前から参画している事業所の方針では、児童の主体性に重点が置かれる。 児童がこちらの想定外の動きをしようとも、その姿を認めよ

        仕事の目的に立ち返る

        • 鼓動する社会と目的へ向かう人間

        • 誰のための療育、誰のための教育。 最近の自分は支援者としてこうしたい、という支援者側の視点で療育現場と教育現場を見ていたけど、児童、生徒側から見た療育、教育はどんな風に見えているんだろう。 かつて授業を受けていた自分は、どんな授業を面白いって思ってたのかな

        • 療育事業所間での混乱

          一人の他者ー最近の療育の考え方

          人として、目指す人間像は変わらない。 それが自分にとって、どんな人で自分の好きを知り、増やし、深めていくことが一つの要素だと思っている。 だが、その過程の発達に注目すると、人それぞれ感情や認知や身体や社会性の側面から発達に偏りがある。 だから、療育では、個々の児童に適した関わり方で各側面の発達を複合的に促す必要がある。 何より、個々の児童に適した、という文言が大切だと最近感じる。 個々の児童にとって、心地よい他者との物理的な距離感、心理的な距離感、口調、声の大きさ、身体の大き

          一人の他者ー最近の療育の考え方

          療育における抽象と具体

          療育において、初めて出会う児童ばかり。 児童の姿が資料からだけでは見えなく、結果として安定した狙い、抽象的な狙いにとどまる。 もっと抽象から具体をイメージしておいてから療育に望みたい。 療育が思った方向に行かなくても、具体を現実に結び付けて結果として狙いに沿った療育ができる可能性があるから。

          療育における抽象と具体

          療育の違い

          それぞれの療育の違い。 はっきりしてきた点があるにせよ、どちらもしっかり知っているわけではないゆえに軸のブレや混同が見られる。 まずはお互いの療育の性質、何の発達を目的としてどんな人間の形成の一助となるのか。 その支援方法や支援者の関わり方は? 根本的な部分から違いを浮き彫りにしていかなかければならない。 同時に、根本にある共通点を探らなければならない。

          療育の違い

          未知への遭遇、問題への対処、

          未知への遭遇、問題への対処、

          人間の多面性

          どの人も、多面性を持っている。 家族といる自分、友達といる自分、恋人といる自分、会社の上司といる自分、家にいる自分、学校にいる自分、職場にいる自分、外交的な自分、内向的な自分、市民としての自分、国民としての自分 たくさんの環境に所属する中で自分が醸成され、同時に環境からの刺激によって生じる内側からの感覚を知覚することで気づく自分の姿もある。 どれも同じ自分であっても、他者が知る自分はその一部に過ぎない。 教養とは他者の気持ちを分かることと言うが、それには相手が多面性を持っ

          人間の多面性

          考え方の違い

          療育の違い。 認知と感情。 障害に対する構え方。 個人とは区別される脳機能障害と人間。 感情の発達を促す、感情を膨らまし、感情に気づき、感情のままに表現する。 日々生活する中でのストレスを下げる。 自己肯定感を高める。 知覚・認知・身体機能に合わせた、遊びとやりとり。 他者との関わりから、興味は広がっていく。 世界の中に他者がいる。 それが心地よく、近づこうとする。 次第に他者に興味を持っていく。 自己を認められる環境の中で、やってみたいが増えていく。 主体的に行動する。 自

          考え方の違い

          心の貧しさ

          最近、彼女に対してあたりが強くなっているように感じる。 彼女がいることが当たり前になっているように感じる。 同時に、彼女の考え方に違和感を持つようにもなっている。 彼女の楽観的な考え方が羨ましく、同時に嫉妬心のようなものを抱いている。 情けないが、事実だ。 彼女と話していると、自分の憎悪や醜悪さを感じる。 そうして彼女を否定したくなる。 彼女は健気に笑っているが、実際どう感じているのだろう。 彼女に対する嫉妬心。 彼女だって辛いことや悲しいことを味わってきている。 彼女はなぜ

          心の貧しさ

          集会の難しさ

          朝の集会、帰りの集会、ともに撃沈。 原因はいくつかあると思う。 1、児童との対話が少なかった →本日は自分が離席せず児童に対して一方的に情報を与える時間となってしまっていた、対話的な会で児童の集団としての個、主体性を求めたい 2、発信の少ない児童に対して発信を求めた →一対一ならまだしも、全体の前で意見を求めることが多かった、一人一人に聞くことで個々の児童の発信に加え、個が全体を意識する時間となる 3、児童の声掛けに応じる機会が少なかった →ちょっと待っての声掛けを無視してし

          集会の難しさ

          応答的なコミュニケーション

          注意散漫な男児。 給食中、早く食べ終わった彼は、ほかの児童が完食することを待つこととなった。 彼にとっては、とても苦痛だろう。 刺激が欲しい。 そのために、離席や私語が目立つ。 これはきっと、彼にとって適した刺激を提供できていない自分たちのせいだし(彼の好きな本を渡したり、常時話しかけられる環境を作ったりできれば、、)、人的資源の不足が否めない。 これを先輩に相談したところ、待つことの大切さを訴えられた。 確かに大事だ。 日常場面で待つことはよくある。 だから、待てない児童を

          応答的なコミュニケーション

          教育支援の難しさ

          塾でのアルバイト。 一時間目、発達支援での児童との関わり方を教育の場に持ち込む難しさを痛感した。 まずは児童への共感と思い積極的に友達のように関わったが、これが逆効果(TEACCH的な関わり方ならまだ落ち着いていた?そもそも、授業のような学校教育場面とらTEACCHの適合性は?)。 勉強にモチベーションがない児童が離席。 ほかの児童を巻き込み遊ぶにまで至った。 関わり方では児童らが目の前の問題に意識を集中させることだってできたのだし反省。 目の前の問題に主体的に取り組むことを

          教育支援の難しさ

          認知と心

          課題中に目移りして課題に集中できない児童。 そんな児童を見た園長は「かわいそう」と言った。 児童の特性と児童の心を分離した上での考え方だと思う。 ある意味、自分にとっては新鮮な考え方だった。 その特性を持つ児童、という考え方をこれまでしてきたからだ。 現センターでは上の考え方が主流じゃないかと思う。 日常生活を困難にする障害特性、特に認知的な偏り、そこを環境調整することで障害特性をフラットにする。 重要なのは、児童の認知特性に合わせた環境の設定ということだ。 児童の認知を理

          認知と心

          関東と関西

          7月に新たな職場に入社したのだが、本日歓迎会が執り行われた。 休憩時間にもかかわらず、揃ってくれるベテラン職員の数々。 私に質問を投げかけてくれる。 が、どうもよそよそしさを感じた。 ある職員から、関東と関西の違いを問われる。 コントと漫才、雑談とオチ、ボケとツッコミ、正直自分は関西でのコミュニケーションが好きだ。 同時に、関東でのコミュニケーションには壁を感じる。 本能を理性で覆い被せているイメージ。 質問に対して、人間性をズカズカと批判される、なんて恐ろしいレッテルを関西

          関東と関西