外見至上主義

多くの人間が自分の容姿レベルについて自覚するのは何歳頃だろう。

中学生になってから、自分が可愛くない方に分類されることを知った。自由度の高かった小学校までに対し、中学からは皆同じ制服に校則で制限された頭髪等、素材が浮き彫りになる。さらに思春期に入り始めて男女の分断も色濃く現れ、交友関係も変化する。スクールカーストの概念が当てはめられる教室は中学校から完成されたように感じる。明るい子や運動神経がよい子からなる所謂一軍の中には、明るくはないし運動神経もどちらかというとよくはない、でもただただ顔が可愛い子がいつもいた。

可愛い子がなんでもない日常の仕草をなにかする度に、男子は可愛い可愛いと聞こえるように言っていた。そして可愛い子が好きなのは異性だけではない。可愛い子と友達でいられることがステータスたりえるため、よほどぶっ飛んだ性格をしていない限りは何もせずとも一軍に吸収されるのだ。なんとなく先生方も可愛い子には甘かった。老若男女問わず、結局可愛い子にはみんな優しい。そして、みんなの優しさを浴びて生きてきた可愛い子は大体性格がとてもいい。嫌われる要素がない。

自分は笑いに変えられるような明るい性格のブスでもなく、かといって顔が原因で明らかないじめに遭うなどの被害者となったような経験も特にない。せいぜい可愛い人ランキングで無言のスルーをされるくらいだがそれは加害ではない。でもそれがずっと苦しい。何者でもない無のブス。

可愛い子と自分の扱いの差に気が付いてからは写真が怖くなった。行事後の集合写真をカラー印刷してクラス全員に渡してくれた先生に心の中で謝りながら毎回捨てていた。カメラの前で身構えて硬直した表情筋は無愛想に拍車をかける。いい笑顔の美人の横に真顔のブス。カメラを発明した人を何度恨んだことか。卒業式すら誰とも写真を撮らず、正門の玄関で写真を撮る集団を避けるために裏口から走って帰った。あまり早く帰ると家族に勘づかれるため、いつもより遠回りをして倍の時間をかけて帰った。買わされた卒業アルバムに映りこんだ自分の顔には、今でもガムテープを頑丈に貼り付けたままだ。個人写真のページに至っては、ページごと開けないよう貼り付けている。

高校は私服、髪色メイク自由の学校に入学した。その校風から可愛い人、おしゃれな人、かっこいい人が他校より多かった。そのうえ進学校だったため、美形で実家が太くて賢い人たちに日々コンプレックスを刺激されながらどんどん卑屈になっていった。なんといっても高校はスマホの持ち込みが可能であったため、ことあるごとに写真が撮られた。私と××くんだけ笑っていない、みたいな集合写真が何枚もクラスLINEに送られてくる。なんであんただけこんな険しい顔してんの?wwwと顔を拡大して馬鹿にされたこともある。さらに酷いことに、男子による容姿関連の陰口が本人である私の元まで届くという、さすがに中学校でもなかった経験を何度かした。当然高校の卒業アルバムも封印されている。

今年度が成人式の代であるため、中学、高校と共に同窓会の知らせが来た。メイク技術や服装で昔より多少マシになったとはいえ、地元の人に会うのが恐ろしかった。むしろ、マシになったからこそ怖かった。自分が微々たる成長をしている間に、素材がいい人はより美しくなっているに違いないから。参加率8割越の同窓会は、自分の顔が嫌でどちらも欠席することにした。

人間の美醜の価値観になんの意味があるのだろうか。顔のパーツが生存率に関係あるのか。生命の健康に関わる本能として、肥満が避けられたり高身長が好かれる等体型については説明がつくというか理解ができる。しかし、顔の凸凹になんの意味があるというのか。私のまぶたが重たいことは生物としての欠陥なのだろうか。私の鼻が低いことは人間としての価値も低くするのか。そんなことをずっと考えていても、街を歩いていて目を惹かれるのは可愛い子。自分を一番外見で差別しているのは紛れもなく自分自身である。

そもそも写真や鏡の中の自分を見て傷つくのは、誤った自己評価が根底にあるからではないか。自己愛が私の顔がこんなに醜いはずがないと考えているのかもしれない。自分の顔を正当に受け入れていたら、ここまでいちいち傷つくこともないだろう。自分を客観視できずに肥大化した理想と現実のギャップは、可愛いに対するコンプレックスを加速させるばかり。せっかく女子に生まれたのに振袖姿の前撮りすら拒否し、成人式も欠席。顔面コンプレックスは親不孝の域まで差し掛かった。

自分がこの顔で誰かを好きになっていることを想像しただけで気持ち悪すぎて、恋愛すら拒否反応が出ている。恋愛という文字を自分が使うことすら気持ちが悪い。入力した後にもう一度れんあいと打ち直して変換欄に用意し、学習済の予測変換を消去する。周りの顔面コンプレックスを自称する子たちもなんやかんや彼氏を作ったり、遊びに行けば写真を撮ったりと私からすればしたくてもできないことを普通にしている。

人類は早く顔の造形が生命に関係がないということに気が付くべき。それか世にも奇妙な物語のように美人税を導入し、私は不細工年金を受給する。

もう顔が可愛くなりたいというわがままは言わないから、せめて自分の顔を受け入れたい。顔面コンプレックスを理由に避けてきた楽しいことをやる権利を自分に認めたい。まぶたが重たくて鼻が低くても笑って写真に写っていいと思える日が来ますように。卒業アルバムや前撮りの分も思い切り笑える人生に変えられますように。

終わり

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