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言葉のはなし。

趣味というか、部活というか、名称はなんでもいいとして、とにかく、このnote以外でも、自分は文章を書く機会が何かと多い。
基本的に小説ばかり書く。
絵がしゃべったり、星を砕いた薬の話とか。基本ファンタジー。
ただ、どうしても魅力的な文章が書けない。
語彙力がないのか、発想力が無いのか。
でも、Twitterでやる「物書きさんは~」の企画の自分の回答とか結構気に入ってるし。
なにかな~と思ったら、情景を描けない、雰囲気やムードをうまく文章にできないんだろうと思いついた。
そこでようやっと気が付いた、言葉とコミュニケーションは違う。
言葉は単語と間の語と遣い方の混濁である。でも、コミュニケーションは、雰囲気、その人の見た目、気温、天気、香り、触れているところ、場所、目線、動作、それから言葉たちの集合体だ。
つまり、人間が受け取るすべての情報の集合体である。それを、「言葉」で表すのが物書きだ。
常々、「言葉に表すとチープになることが多い」と思うけれど、そりゃそうだ。情報の集合体を、少ない手立てで表そうとすればそうもなる。
単に
「かなしい」と書くだけじゃわからない。
「哀しい」だと哀愁がただようし、「カナシイ」だと皮肉ってるかふざけてるのかの二択に思える。
もっと状況を限定するならば、
「こぼれた涙を掌で受けて握りしめた──それだけが、あいつと自分を結ぶものだと思えたからだ。」
なんて言ってみたら、「あいつ」はもしかしたら故人かも、なんて思える。
言葉には温度が少ない。自分も、恨みつらみを書き連ねてその平凡すぎる情に全部文章を消したりする。
温度を表すのは、情景を表す文であり、語彙だ。
「うれしい」より「狂喜乱舞した」のほうがなんか温度がある。気がする。

3Dを2Dにするのは、絵でも文でも難しい。
でもその可能性に魅了されているのもまた事実で、深さに少し絶望しているのも事実。安っぽい絶望などこの世にあふれるほど存在するし、みんな知ってる皮肉だって、楽しみだってある。
それを唯一無二にしようと思っても、チープなものができるのは悲しいな、なんて。
それでも書くことを続けられたらいいのだけれど。