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「丁寧な暮らし」にまつわること

なかなかむずかしいお題を選んだものだとおもうけど、でもさっき、マーマレードジャムの甘夏を茹でこぼしを始めて、グツグツ茹でてて、そんな音を聴きながらすっかりくつろいでしまった。ここまで書いて言う、わたしは「丁寧な暮らし」をしていると主張したいわけではないんです。


ジャムはたしかに特別なものがある。香りも立ち込めている。まろやかな刺激を受ける時間。と言っても、たまに見かけるのは、「丁寧な暮らし」への批判的な記事。


わたしは丁寧と呼べるほどのことは全然してなくて、むしろあんなこともこんなことも全然できてないとおもっている。母がいるからなんとかなっている。甘えもある。ということは、たいしたことはしてないということ。


「丁寧な暮らし」はたしかに響きがいい。でも、忙しく働く女性にはきつい言葉に響くようだ。わたしのようなマイペース人間から見たら、働いてて家事もやるだなんて、スーパーな女性ですね。もうそれ以上は求めなくていいから、ゆっくりしてくださいと言いたい。


障害があると、家事のなかでもできることできないこと、パキッと分かれてくる。ただ単にわたしの個性ゆえにかもしれない。洗濯なんてやらなくていいのなら、やらないで済ましたいというのが本音なくらい。疲れやすいというのがある。何でも休憩が必要、ふぅ〜とひと息つくときがほしいのです。だから、こん詰めてやるというのはわたしには向いてない。障害がある自分を受け入れているので、できることとできないことがあって暮らしは成り立っているんだということをよけい感じるというか、そうでしかない。


ジャムはたまたまできただけ。「丁寧な暮らし」のうちに入るかもしれないけど、だし取り、保存食っていいますから。わたしは「丁寧な暮らし」を肯定も否定もどちらにもつかないです。ズルいといえばズルい。やろうと思ってもめんどうとか先に立ってしまうとこあります。基本的に、料理は好きだけどそれだけ。


今日は一体何を言いたかったのだろう。一つあげれば、人はできることとできないことがあるということ。思い出すと若い頃は自分ではない誰かになろうとすることに忙しかった。そういうことをしていると、自分というものがどんどんわからなくなり、違うことをしていても気づいていない。そこまでくると、もう重症。これがわたしの若い頃のことです。


歳を重ねるってとてもいいことですね。一障害者としても、自分を受け入れる許容量が大きくなるから、そのまんまの自分でいることが楽になる。別に隠すほどのことでもない。でもね、わたしわかっているんです。わたしが障害者としてのびのびしてるのは、皆さんのおかげなんです。わたしを受け入れてくれるから。だからです。ありがとうございます。



それでは、またお会いできますように。
ありがとうございました。

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