石岡丈昇『ローカルボクサーと貧困世界』を読んで

 途中から印象に残った箇所に付箋を貼る。
 まずはカピットバハイと呼ばれる社会的交流。単に物理的範囲期として住む人々を指すのではなく、相互に存在を認知し合い特定の規範を共有し合う仲間達に対して用いられる用語だそうだ。その特定の規範の詳細をここでなぞるつもりはない。特筆しておきたいのは、カピットバハイを説明するときに取り上げられた生活課題解決の事例だ。それは、貧困世界で葬儀を執り行う際にカピットバハイが利用される。貧困故に葬儀場を借りる術などなく、彼らは道路沿いにある家屋を葬儀場として利用する。狭い家屋であるため棺を家内に収められず、はみ出す形で棺を置いて喪に服す。その最中で、棺の周りを取り囲んで、トランプに興じ、賭けをするというのだ。私にすれば不謹慎きわまる行為であるが、ゲームの勝者が、儲けの幾分かの金額を遺族に支払うとなるとイメージが反転する。葬儀場でトランプに興じるのは、葬儀費用を調達すると互助的営為である共に、死の悲しみを紛らわして軽減する共同作業として機能するというのだ。近代社会の中で、貧困であるがゆえの人間関係資本を構築している。血縁に収斂されない貧困地域という地縁が、所帯だけでは解消できない問題をカピットバハイが補完することで解決されていく。
 次に著者が、見出した「フィリピン」のボクサー達と、現代日本に暮らす日常との繋がりだ。著者はそれを「尽きなく在ろうとする意志」だという。我々が日本の中で「かく在りたい」と夢を抱きながら暮らしている。フィリピンのボクサーも夢を描きながら、それを日常の糧として生きる生活実践を、本書には描かれている。夢が実現する可能性は低い。しかし、ボクサーの生活は、その夢が起点となって、スクオッターという貧困世界の中で、多様な紐帯を交錯させながら成立している。筆者曰く、我々とフィリピンのボクサーでは、日常を構造化するフレームが大きく異なっており、そのフレームを無視して、同じ人間として両者を同一の地平では扱うことは出来ない。しかし、その上でも「尽きなく在ろうとする意志」を持ち、夢が閉ざされそうになっても、その事態を冷静に受け止め、夢を描き直す強度をフィリピンのボクサーは備えている。そうした点を、我々は学ぶことが出来る、筆者はいう。日常を覆うフレームの懸隔。我々は彼らの生活実践を知る機会は殆どないし、それを知ったからといって、我々の日常に大きな変化をもたらすことはないかもしれない。他方、それに触れることによって、我々のフレームを変えることも可能なはずだ。「尽きなく在ろうとする意志」。フィリピンのボクサーと我々の懸隔に架橋を渡す言葉だ。
 前半を読んでいた間は、付箋も貼らずに読み飛ばしていたので、チェックできていない。最初から丁寧に読んでおけばよかったと反省している。 

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